見出し画像

かたすみの女性史【第2話】壺井栄をナメるなよ !(その7)

壺井栄をナメるなよ !(その7) 栗林佐知

(その6)からつづき


■ 性別役割やルッキズム

 もし、栄がはじめから、家父長制や家族制度の不合理を「否」とする思想をもっていたらどうだったろう。
 もちろん、そんな結婚観を持っていたら、妹とやもめ作家の結婚を取り持とうなどとはしなかったろうし、作品自体が成り立たなかっただろう。

「妻の座」は、力強い作品がいかにして生まれるか、ということの、稀少な見本だと思う。
 こうした生の衝撃から発した問いを、全身をぶつけて描く機会はそうあることではないし、そんな渦中にあって、自分の混乱をも真摯に書き留め得る膂力は、誰しもが持ち合わせるものではない。

 自分の混乱や「醜態」も公平に見る栄の目は、究極的な女性差別を見抜き、女性が“容姿”で品定めされる理不尽さ、性別役割分業への疑問を、血の通った言葉で表現している。

《一しょに目がさめても、男は寝床で新聞をよみ、女は起きて台所に立たねばならぬ。男たちが起きて顔を洗っている間に、女は掃除をすまし、朝食と弁当の支度をする。それが五分遅れたといって文句をいえるのは男だけで、女は結局三人分の弁当をかかえてあとから出かけることになる》p116*4) 

 また、今日ようやく「ルッキズム」という言葉をあてられ可視化されるようになった“美醜による差別”についても、見えるままを言葉にして、読者の胸を叩く。

《みめ美しく生まれない女の、口に出せぬ悲しみというものを、美しく生まれた人たちは知っているであろうか。形の上での美しさを得られぬ不幸を、目に見えぬものの上で築こうとする、美しからぬ女の努力、しかもその努力は常に買われること少なく、美しいものを好む人間の自然な心の前にへり下る。そのへり下る心さえも、受けとってもらえぬ悲しみ。それを貞子はその怜悧さで分かってくれるだろう。だが分かっている貞子自身もその美しさが文名と共に聞こえている作家なのであった。》p99*4)

 いまなお、この問題に、このような形で正面から問いかけた作品は、そうそうないのではないか。

「妻の座」のような作品が、こんにちの「フェミニズム小説集」に登場したら、どんなに活気づくだろう。表現の根っこにフェミニズムがすわった作品の群が、いろんな色合いの問題意識を花開かせたものになったら、どんなに楽しいことになるだろう。

 そのことはきっと、女たち、のみならず、社会で弱い立場に立たされた人たちをゆったりとつなぎ、弾力のある連帯をさせるだろう。
 かっこいい、優秀な颯爽とした女ばかりが称揚される傾向は、正直ちょっと怖いのだ。じっさい、今や女同士の境遇の差が開いて、私たちは分断されはじめている。
 まさかとは思うが、いまもし「妻の座」を読んだ「フェミニスト」の中から、
「『閑子』は甘い。美容整形やエステで美人になるよう努力すべきだ」なんて感想が出てきたら、あまりにおさきまっ暗だ。
「ルッキズム」は今やじっさい、女だけではなく、男たちをも苦しめ始めている。「努力で自分を変えなくてはならない。変えた人だけが生き残ってゆく」という新自由主義の中で。

昭和10.2.21多喜二を偲ぶ会 (2)

前列右から、小林多喜二の弟、母、妹、宮本百合子
中列右から2番目、壺井栄、中野鈴子、佐多稲子
(昭和10年2月21日 小林多喜二を偲ぶ会)


■ 問いかけの行方

 今日の読者から見ると、「閑子」もまた、ふしぎに思えるかもしれない。なんでまた、40歳にもなって、姉さんの言うことばっかりきくのか、と。
 だがこの頃の人たちは、自分の意思で自分の進路を決める方が稀だったと思う。男でも女でも、そういう自由のある人の方が少なかっただろう。

 それに、栄と「閑子」さんは7つも違い、この姉妹の紐帯は、人と人とのつながりが希薄になった現代の私たちにはちょっと想像がつかないくらい濃い。
 かつて、安月給を貯めて妹を修学旅行にやったのも、小学校を出て「女中に行く」という「閑子」さんに進学を勧め、自分の夢だった教職に導いたのも栄だった。
 のち「閑子」さんと末妹を東京へ呼んでさらに勉強させたのも、末妹と繁治の甥との恋愛を応援したのも、このカップルの娘に「そこひ」の治療を受けさせ、自活のためにピアノを習わせたのも、「閑子」さんの給料めあてにまとわりついてきた変な(ヒモ志願?)男を追い払って「閑子」さんを守ったのも栄だ。

 いつも通り、妹の幸せのためにしたはからいが、真っ逆さまの結果になってしまった。妹思いの栄はどんなにやりきれなかっただろう。

若き日の栄と末妹


若き日の栄と14歳年下の末妹(のち「大根の葉」のお母さんのモデルに)
この二人のちょうど真ん中に「閑子」さんが生まれている。

 「ミネ」は怒り狂いつつ、盟友の「千恵子」(モデル:宮本百合子)から
《どうしてみんな結婚させないで、お嫁にやるの》
と言われて、反論しながらも、その「信念」に揺さぶりをかけられている。 
 そして、尊敬してやまない「千恵子」でさえ、獄中の夫とかわした書簡は、妻の方が「様」の敬称つきなのに、夫(宮本顕治)のほうは妻を呼び捨てで呼びかけているのを見て、疑問を感じ始める。

 だが。
 といって栄が「家族制度」への信条を変えたかというと、そうはならなかった。
 もともと、ものごとを思い詰め、考えを急展開させるたちでもなかったし、なにより、あまりに忙しすぎた。

(↑ この最後のパラグラフ訂正いたします→(その10)


(その8)へつづく→

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?