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かたすみの女性史【第2話】壺井栄をナメるなよ !(その9)

壺井栄をナメるなよ !(その9) 栗林佐知

→(その8)からつづき

■ 泥沼の「草いきれ」論争


  じっさい、徳永直の作品「草いきれ」は語るに落ちる。
 子持ちの独身男がどんなに大変かは身に迫る。しかし、

《経済力が同じなら男やもめは女やもめよりはるかにみじめである》p39

 という見解はいかがなものか。そんな母子家庭が何軒あるというのか。
 それに、自分の靴下を繕い、きんぴらをつくるのは、人として普通のことで、ミジメなことではないだろう。
 なにより残念なのは、自分が誰かを不幸にしたことへの痛みが、まるで描かれていないことだ。
 恨みを晴らすために書いた、としか見えない。
  悪意の発露のために文学を使ってしまったら、もうおしまいではないか。

 前述した通り、やはり文芸誌での「草いきれ」への評価は、極めて低い。主題であるはずの「やもめの苦しさ、みじめさ」が読み手が共感するように描き得ていない、と。
 さらに安部公房は、「野村」の考えは「女性差別だ」とはっきり言っている。
 
 「草いきれ」の発表された1956年の後半、ジャーナリズムで、栄と徳永の作品について、さかんに取り上げられ、「草いきれ論争」が起こった。

『群像』1956年10月号、「創作合評」のページ

 「群像」「婦人公論」「新日本文学」などで、評論家たちが、徳永の「草いきれ」、栄の「岸うつ波」だけでなく、7年前に出された「妻の座」にまでさかんに批評を加えている。

 このモデルとなった出来事に関しての、壺井栄・徳永直の行動への批判は、前述した通りだが、一方で、栄の「妻の座」じたいが「デマゴギーだ」(平野謙)──これは理屈がいまいちわからない──とか、“文壇のうちわもめをこんなところで繰り広げるなどくだらない”(武井昭夫)という評論もあった(中島健造・平野謙・安部公房「創作合評」『群像』1956年10月/武井昭夫「『草いきれ』と『妻の座』の同位性」『新日本文学』1957年1月)。

 こうした盛り上がりを受けてか、1956年12月~1957年1月、『群像』誌上で、栄と徳永は論争する。だがこれは、子供のケンカのような言い争いに終始し、編集者の判断で強制終了される。
 
 「子供のケンカ」といわれても、「おれを蹴った」などとやってもいないことを言われたら、栄だって言い返すしかないとは思うけど。
 
 しかしなんだって、徳永はこんないやらしい手法(他人の作品と名前もそっくり同じ登場人物を使うことからしてまず、いやみだ)の作品を書いてしまったのか。
 憤懣やるかたなかったのはわかる。
 おれだってかわいそうなのに! と思ったのもわかる。
 徳永の女性観はひどいが、同時代の平均的男性と比べて、「とくにものすごく悪辣」というわけではなかったかもしれない。「みんなやってるのになんでおれだけ? おいみんな、同情してくれよう、おれ、かわいそうだろ?」と思ったかもしれない。
 それから、これだけは同情してしまうのだが、相手が悪かった。壺井栄は明るく正しくやさしく強く、みんなに好かれている。こんな人に親切にされて、それをあだでかえしてしまったら、悪者になるのは仕方ない。「おまえは悪者だ」と世間から言われたら、やっぱり普通の人は心理的に厳しい。
 そしてやっぱり、自分を糾弾する人が家に押しかけてきたら恐い。

 だけど人間、ここが勝負だ。
 悪いことをしてしまった時、どうするか。やっぱり、「自分がどんなふうにいけなかったか」、「どこは糾弾される筋合いがないか」、「どこは糾弾されても仕方ないが自分としてはどうしようもなかったか」きちんと考えなくてはならない。
 
 「徳永はふるわない」などと先の章で書いたが、それは、栄ファンからの見方であって、正確でないかもしれない。
 徳永直は、1950年、「新日本文学会」から分離した「人民文学」の主要メンバーとなり、その代表としてロシアへ行き、先方の文学者たちと交流して、その報告を雑誌に書いたり、活躍している。
 そして、なんたって徳永直は、戦前のプロレタリア文学の大スターであり、ドル箱作家であり、組織の要だった。
 もしかしたら、栄を同業者として重く見てはおらず、べつに、彼女の大衆的人気なぞうらやましくもなんともなく、馬鹿にしていたかもしれない。

 ……なんて、勝手な想像をしても仕方ない。
 
 しかし、徳永の戦前のベストセラー「太陽のない街」や、幼くして働きに出る、よるべない少年少女の人生の一幕を描いた「人の中」などの、みずみずしい初期作品や、亡き妻の軌跡を愛情こめてつづった「妻よねむれ」等の作品を思えば、最晩年の「草いきれ」は、とても悲しい。
 
徳永直は、壺井栄との論争の1年後、1958年2月に58歳で、自伝を書きかけのまま病没する。「草いきれ」は徳永の「選集」にも入っていない。

 だが、おもしろいことに、この未完の自伝は徳永たちが分派して切り捨てたはずの「新日本文学」に連載されていた。「人民文学」は活動をやめ、新日本文学に再び合流していたのだ。
 こういうのは一瞬のおおらかさなんだろうか。興味深い。

(その10)へつづく→



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