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野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第一話 大黒屋光太夫(その4)

*ヘッダー画像:「魯西亜国漂舶聞書 巻之二」、山下恒夫編纂『大黒屋光太夫史料集 第二巻』日本評論社より。
〔光太夫ら十一名の漂民、岩穴で休息する図〕=同書キャプション、p386
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(その3)からのつづき

第一話 大黒屋光太夫(その4)


【2】(のつづき)

 光太夫たちは、ロシア人先住民の苛酷な支配・被支配関係も理解した。

ロシア人は皇帝の役人の不在を隠れ蓑にして、アレウトにラッコやアザラシを獲らせながら、ろくな代償も与えない。収穫が減じれば半殺しにし、さからえば鉄砲でうち殺す。
アレウトがついに武装蜂起すると、ニビジモフは鎮圧の皮切りに、かねて略奪していたアレウトの首領の娘を部下に殺させたうえでその死体を、漂民の立場の弱みにつけこみ磯吉小市に埋めさせた。

磯吉はアレウトに強い親愛の情をよせていたので、苦しかった。
後年磯吉を主な語り手として編まれた『魯西亜国漂舶聞書』(編者不詳)は、アレウトの日常を活写する一方、ロシア人の所業を「暴虐無道」と記している。

*「魯西亜国漂舶聞書 巻之二」、山下恒夫編纂『大黒屋光太夫史料集 第二巻』日本評論社より 〔雨降るときは、嶋人合羽を着、マイダルカに乗り、波の中を乗り切って魚猟をなす。〕
=同書キャプション、p418
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アレウトの女性。顔と手足に入れ墨、顎と鼻穴に白い骨をさして飾りに。
魯西亜国漂舶聞書 巻之二」、
山下恒夫編纂『大黒屋光太夫史料集 第二巻』日本評論社、p397より
同書キャプションをリライト→*原キャプションこちら
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被抑圧者に心をよせる磯吉の視点は、ロシア人から船頭としてつねに特別待遇をうけ――ロシアでは船長は庶民ではなく上流階級に属していた――視点が制約されていた光太夫にも、貴重なものだったはずだ。

 翌年、迎えのロシア船がついに姿をみせたが、風浪で着岸できず座礁、難破してしまう。ニビジモフらは衝撃をうけたが、やがて立ちなおり、古材と流木をあつめて船をつくるという。
光太夫たちも神昌丸の部品を持ち寄り、共同で作業した。

一年がかりで完成した船がアムチトカ島を離れたのは、漂着から4年1カ月後のロシア暦(西暦より11日遅れ)1787年7月18日。

17人だった一行は、9人になっていた。仲間たちの死因のほとんどは、皮膚や歯肉からの出血や衰弱を症状とする、栄養不足ゆえの壊血病だった。

大黒屋光太夫(その5)へつづく

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