見出し画像

かたすみの女性史【第2話】壺井栄をナメるなよ !(その2)

壺井栄をナメるなよ !(その2)  栗林佐知

(その1)からつづく


画像1

■ 壺井栄の生涯(上)

「妻の座」の話に入る前に、作家の略歴をざっとお話ししておこう。

 壺井栄。旧姓、岩井栄は、明治32(1899)年8月5日、小豆島の旧坂手村に生まれた。
 同郷の一級うえに、のちに夫となる詩人、壺井繁治(つぼいしげじ)と、プロレタリア作家、黒島伝治がいる。
 栄の両親は、醤油(小豆島名物)の樽づくり業を営んでおり、父を女手一つで育てた働き者の祖母、それに職人たちが同居していた。そんな家の、兄1人姉4人の下に、栄は10人きょうだいの5女として生まれた。
 栄が学校に上がる頃から、樽製造業が傾き、栄は、まるで長女のように家を支えるために奮闘するようになる。妻子持ちの兄は弁護士になるべく東京で苦学中に病没。姉たちも嫁いでゆき、栄は進学して教師になりたかったのをあきらめ、高等小学校を出て郵便局や役場に勤め、一家の支え手となったのだ。

 栄の祖母、両親ともに、明るい気立てで慈悲深く、お遍路さんの残していった幼い姉弟を、実の子供たちといっしょに育てたほどだった。どんなに貧しくとも「明日は明日の風が吹く」と、くよくよしない栄の気風も、祖母・両親から受け継いだもので、一家の物語は、栄の作品の豊饒な題材となった。
 栄もまた、自ら子供は産まなかったがすぐ下の妹の生み遺した姪、甥(兄の子)の遺児をわが子として育て、二人の妹やその子たちの面倒をなにくれとなく見たうえ、縁戚でない少女まで援助してあんま学校へ通わせたりと、多くの人に福を授けた。
 夫の詩人、繁治もまた、愛情深く(栄に言わせると「男のくせに細かくてすぐ怒る」そうだが)、栄の縁の子供たちの父親になり、栄がなくなった後も円満に暮らした。

 大正14年2月。26歳の栄は、上京していた壺井繁治から「遊びに来ませんか」とハガキをもらい、小豆島を旅立つ。
 裕福な農家の三男である繁治は、早稲田大学を中退し、アナキストとして活躍(実際はゆすりたかりのあげく食い詰めていた)中で、仲間たちとダダイズム詩の同人誌を発行するも、資金を仲間の一人に持ち逃げされ、千葉の廃病院のような「寮」で、友人たちと無為に過ごしていた。

 すしを手みやげに栄が来たとき、繁治は最後に残ったもう一人とともに三日三晩飲まず食わずで転がっていた。
 このとき、これまで恋人ではなかった栄が「郵便局をやめてきた」と聞いて、繁治は結婚を申し込む。

 栄の貯めたお金で世田谷に部屋を借り、転居続きの貧しい夫婦暮らしがはじまる。
 このとき、ご近所さんとして親しくしたのが、ヒモのような夫を養う、その日暮らしの林芙美子と平林たい子だったのは有名な挿話だ。

(その3)へつづく(また来週~)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?