見出し画像

モヤモヤした時は

最近なんとなくモヤモヤしていた。悩みというような大きなものではない、正体不明のモヤモヤ。ほんの少し気分が落ち込んでいるような、何かに不安を感じているような。たぶん日常のちょっとした事、一つ一つは取るに足らないようなことの積み重なり…で、そうなったのかな、と思う。

自分の心の中を覗いてみると、そこには「コロナがだいぶ落ち着いて、世の中が動き出したこと」による不安があった。コロナの終息はもちろん喜ばしいこと。けれど、周りの人がどんどん活動を再開している中で、何か自分が置いて行かれてしまうのではないか、というような気持ちになってしまうのだ。

もともとマイペースな性格なので、コロナ禍において活動が制限されることにはあまり不安や焦りを感じなかった。以前は、周囲がとても頑張っているように見えて、自分はもっと頑張らなくてはいけないのかな、と思うこともあったが、コロナ禍においては、周囲もゆっくりしている(ように見えていた)ため、なんとなく堂々とのんびりしていられるような(笑)安心感があった。けれど、コロナが収まってきて世の中が急にスピードアップしたように思えて、焦りを感じてしまったのだ。

10月に入り、緊急事態宣言が開けると同時に一つ仕事をもらって、私にとってはとても好調な滑り出しだった。近場だけれど温泉にも出かけた。それはとてもありがたいことだ。でもそれが終わってまた日常が戻ってきた時、「祭りの後」のような、ポッカリと穴が開いたような気分になったのかもしれない。そんな時にSNSをのぞいたりすると、周りがすごく順調に見えて、自分の「できていないこと」に目がいってしまったりする。

そんなモヤモヤを感じていた今日、ふと気づかされた。

日常。当たり前のような日々。それは決して当たり前じゃない、ということに。

コロナ禍において、ただ健康に過ごせること、何気ない日々の生活のありがたみを、あれだけ痛感したはずなのに。喉元過ぎれば…で、もう忘れそうになっていた。

今日、感謝できることを考えてみた。

健康で仕事ができること。母がおいしい朝食(ご飯とみそ汁)を作ってくれたこと。姉がなぜか突然「簡単でおいしそうなバナナマフィンのレシピ」をLINEで送ってくれたこと。空が青くてとてもきれいなこと。おいしいコーヒーが飲めること。時間がたくさんあること。コンタクトレンズの支払いができたこと…。数えだしたらいっぱいある。気づいたら、心のモヤモヤは晴れてきていた。

全部、何ということもないような事だけれど、そのどれも、当たり前にあることではないのだ。もし災害にあったら。家族が病気になったら…。これらはいつ失われてもおかしくない、とても貴重な、かけがえのない日常なのだ。

あまりに身近にいつもあるから、忘れてしまいそうになる。その存在の大切さ。いつも忘れないように、いつも感じて生きたいと思う。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?