【小説】麺女録

 さて文教のうんぬんなる看板が立つこのあたり、旧帝大の国立大学とその附属小中幼稚園をはじめとし、県下で二位の県立高校、同じく四位の市立高校は自由な校風がウリらしく、工業高校は朝昼夜の三部制で時流らしく、歴史ある文系二流私大と附属高校がそれぞれ二校の計四校、新旧専門学校が三校とあり、ためしにと、あげていくのも疲れる。
 一人娘が九歳になるが、さほど教育に興味を持てない俺でも分かる学生街に、俺たち家族の住む小さな家がある。実に小綺麗な、建売りだ。
 そして公務員住宅があり、大学や企業の借り上げ社宅となったファミリーマンションの部屋が散見され、つまり意識が高い地域なのでヤンキーを見かけず、見かけによらず殺人事件が多いので事故物件が目立つ。
 と、いじけて卑下して悪態をつくほど俺の稼ぎが少ないわけでは決してない。ぴかぴかと揶揄されようとも一軒家に違いないこの家で、奥さんは優雅に専業主婦でいられるはずだった。しかしそれでは、俺では、奥さんを満足させられなかった。
 はじまりは浄水器だった。

 俺の地元は四十余年前当時のニュータウンで、電気で汲み上げ井戸水を使う家庭が主流だった。水道はあったが、その方が安い。今も実家がある。ずっと浄化槽の世話になっていたが、数年前近所一帯で金を持ちだし下水道を引いたところ、井戸水から大腸菌が出た。よって実家の水は水道水となった。夏はスイカや素麺を冷やすほど冷たくなく、冬はほっとするほど温かくもない、不美味な水が蛇口から出ている。あの井戸水はもう飲めず、触れもできない。
 こだわりが強いつもりはなかったが、普通に旨い水で育った俺だった。結婚を機に構えたこの家で、水道水そのままは飲まず、お茶にしたなら飲んだ。たまに、どうしても水が飲みたいときにはペットボトルで買った。奥さんは浄水器を使いたがったが、使ったところで旨い水にはならならないと、次から次へと試飲をさせられよく分かった。奥さんが提案する浄水器の購入に、賛成はしなかった。
 しかしその日、その水は旨かった。自然に胸と頬とが弛んだ。
 そうしてわが家に入った浄水器が、まさか某有名マルチ商法の品だと知ったのは、一年近くあとだった。 すでに家電や調理器具や、食品、健康食品、日常雑貨品等が家にあふれていた。
 ママ友がご自宅で主宰する料理教室で、調味料や調理器具から教えてもらったと聞いていた。それが、マルチの商品を使って見せて食べさせる、勧誘の場だったのだ。
 不味くはないが旨くもなかった家の飯が旨くなり、惣菜や外食が減ったのを、好ましく思っていた。奥さんが頑張ってくれているのがうれしかった。奥さんも、俺も、幼稚園に上がった娘も、機嫌がよかった。
 それなのに。
 問いただすと、「健康に良いのはもちろん、あの、水の味にうるさい、うちの主人も認めた浄水器」というふれこみで、すでに何人もの奥さんに浄水器を売っていた。いや、売ってはいないそうだ。うちの奥さんは商品の良さを伝えただけ。もしイイナと思ったよその奥さんがいたならば、ご自宅で、ネットや電話を使い、ご自分で、商品を発注する。するとうちの奥さんにはキャッシュバックが入るだけ、だそうだ。発注をするためには会員登録が必要で、会員登録には既会員の、つまり奥さんの紹介が必要だそうだ。
 そんなバカな理屈に騙される奴が、そうそういるわけない、と俺が言えば、誰も騙されてなんかいない、みんなに失礼だ、と奥さんは言う。
 品質、値段、アフターサービスを含めて、みんな、自分で考え、自分で決めた上で買い物している。付き合いで買う人もいるだろうが、それもその時その人が自分で決めたこと。そして、使って良さが分からなければ、本人自らやめていく。商品は使用後も返品できる。初年度は年会費無料で登録でき、登録はしても一切買い物せずに退会する人もいる。そもそも、誰しも他人を変えることはできない。私(奥さん)が、誰かに無理やり何かをさせているとか、要はネズミ講だとか、突っかかってくる人もいるにはいるが、どうみてもおかしな人ばかりだから気にしていない。MLM(マルチレベルマーケティング)は、ネズミ講じゃない。違法でもないし、法の目をかいくぐっているわけでもない。私たちは特定商取引法に基づいたビジネスをしている。
 ――だそうだ。
 うちの奥さんも騙されている、とは思わなかった。そうやって事を済まそうとするのは、俺の趣味でもない。つい騙されるとか言ったが、それは奥さんの言う通り、人をバカにしている。聞けば聞くほど、うちの奥さんは騙されているわけではなくピュアにおかしかった。そして、うちの奥さんに突っかかり、わざわざケンカを売ってくる奥さん連中がもっとおかしくヤバイのも分かった。 娘が後ろ指をさされるのを俺は一番に心配していたが、 まともな人はそれはしない。「○○ちゃんのお母さん、マルチなのよ。○○ちゃんがかわいそうね」と噂する奴、ましてやわが子に吹き込む奴はクソだ。クソを相手にするのは時間の無駄だ。ちなみに、「ご主人がかわいそう」もごめん被る。そう、理屈はそうだが、怖かった。うちの奥さんがやっていることは、どこまで贔屓しようと、全く、普通ではない。
 というのが、俺の普通であり、意識だった。
 しかしながら五年を越える紆余曲折を経た今、俺の意識は低かったと認めざるを得ない。
 だいたい、うちの奥さんにマルチを紹介したママ友は、公務員住宅の住人だ。つまり、官僚の奥様というわけだ。 子ども同士が同じ幼稚園だった。娘が入園してすぐ知り合い、初めて意気投合したご近所さんでありママ友だったと、奥さんは言った。 県外からこの街に越してきた奥さんは専業主婦で、まもなく娘が生まれ、近所くらいでしか友だちを作れなかった。選べなかった。奥さんが孤独な気持ちでいたと、はじめて気づいた。
 官僚の妻がマルチをやってもいいものか調べたが、国家公務員本人はともかく、その配偶者がするには何も問題なかった。実際、うちの奥さんによる紹介で会員になられた方々――これをダウンと呼ぶが、ダウンの半数以上を、公務員住宅の奥様たちが占めていた。うちの奥さんにマルチを紹介して下さった方――こちらはアップと呼ぶが、アップの奥様は、うちの奥さんのマルチ活動をお手伝いされている。
 それにしても皆さん、よくぞそんなお買い物をなさるものだが。マルチの商品について、質が悪いとは言わない。しかし値段が高すぎて割りに合わないと、俺には思われた。とはいえ余裕があれば、趣味に金を使う感覚でいけるのだろう。金はあるところにはあるもので、つまり、この地域がそうだ。海外赴任をきっかけに、浄水器やらサプリメントやら空気清浄機やらを大量一括購入したダウンもあったと聞いた。そのお宅のご主人は、よく名の知れた企業にお勤めだった。
 好き好んでお買い求めていらっしゃるのだ。他人の家庭の趣味も主義も、俺が干渉すべきところではない。他人から、わが家に干渉されたくもない。どこの家庭にも、人知れない理由(わけ)はいろいろある。
 うちの娘には、生まれつきの病気があった。これまで日常生活に支障はないが、毎月病院に通い、薬も飲んでいる。
 マルチにはまった奥さんは、毅然とした態度で俺を説得した。母親の自己満足かもしれないが、私は、後悔したくないと。
 いわく、サプリメントや健康食品を盲信し、娘が医療を受けるのを拒否するつもりはもちろんない。ただ、できる限り健やかに、薬も増えずに済むように、母親として、水、空気、食事に気を配りたい。けれど、一人ではどうにもならなかった。相談できる人はいなかった。料理も苦手だった。でも、(マルチの)仲間が、助けて、支えてくれたと。
 また、正直気後れしていたママ友とも、(マルチの)仲間として、親しくなれたと。
 夫として、父親として、不甲斐なかった。奥さんが娘のためにと心を決めてすることに、反対する資格は、俺になかった。
 ずっと、心配はしていた。しかし俺の、心配という役割すら不要になった。
 マルチをめぐり、ハイとローを繰り返した奥さんの精神状態は徐々に落ち着き、安定した。クソの相手を一切やめたのだ。同じ頃、そこそこのキャッシュバックを得るようになった。ここ一年、月五万は堅く、もっと多いときもある。するとおそらくクソは自ら寄りつかなくなっただろう。金で人は変わる。他人も、自分も。
 あるいは、ちょっとキャッシュバックがあったところで、どうせ、それ以上にマルチに貢いでるんでしょ?と言われるだろう。だが生き生きとした奥さんによるその買い物は、生活であり、趣味だ。うちの奥さんはもう、そう見えた。
 俺の稼ぎであれば、家計を圧迫されてはいない。飯は旨い。水も旨い。わが家でも料理教室があるようだが、家の掃除も行き届いている。奥さんの機嫌がよい。したがって娘の機嫌もよい。娘はいい子に、元気に、育っている。俺は幸せだ。奥さんの趣味にわざわざケチをつけ、言い争う理由はどこにもない。
 そして実は、まだ奥さんに伝えていないが、俺は健康になった。二十歳を過ぎた頃花粉症と喘息を発症して、以来、増えはしても減ることはなかった薬が、まさか減ったのた。マルチの空気清浄機のおかげで、空気まで旨くなっていたとは。全く恐れ入った。もう、なんだか、ぷつりと糸が切れたようだった。
 俺のかかりつけ医は、家から徒歩十分の場所ある、内科の診療所だった。風邪など引かなければ月一で、主に平日午後に半休を取って退社し、通院していた。しかし薬が減った翌月、まる一日休みを取り、ゆっくりすることにした。
 午前中に受付をし、診察を終えると、正午前だった。
 診療所のはす向かいには、うどん屋の『 亀八(きはち)』がある。正面から見ると横にやや長い長方形の二階建てで、一階と二階の境には飾り程度に瓦の庇がついている。看板はない。二階、漆喰風の白壁に数本細く走る飴色の木の柱は、飾りに見える。一階には、なまこ壁風の白黒格子があるが、”風”でありまっ平(たい)らだ。俺が思うようなクラシックな店の構えのツボは押さえながらも庶民的な、好感がもてる外観だった。褪せてくたびれた黒地に、手打ちうどんと白抜きされた暖簾をくぐった。数年ぶり、二度目の来店だった。

 一度目は、まだ幼稚園生だった娘と二人で来た。その日、奥さんは朝から外出していた。昼ごはんをどうしたいか娘に尋ねると、娘は、いつものうどん屋さんにいきたいと言った。娘に案内してもらい、手を繋いで出かけた。たしか夏休み中だった。亀八と隣家との隙間に、ポリカーボネート製の庇を使って軒先を作り、ベンチを置いて、かき氷も出していた。 
 娘はメニュースタンドをくるくるさせながら、ママとか、お友だちとか、お友だちのママとかと、よく来るのと、楽しそうにおしゃべりした。それから指差しながら、き・つ・ね・う・ど・んと言った。ひらがなを覚え始めた頃だった。俺は値段を見て仰天していた。かけが220円、きつねとたぬきとわかめは330円だった。学生街にある店とはいえ安い。店主はおそらくぞろ目にもこだわり、値上げもなさそうだ。きつねと、サラダとかやくご飯付きの海老天うどんセット770円を頼んだ。味に期待はしていなかった。うどんは、俺的には蕎麦の劣化版だった。蕎麦は味があるが、うどんにはないという認識だった。さらにはのど越しも何もなかった。しかし見くびっていた。生まれて初めて、うどんを「旨い」と思った。讃岐うどんと、メニューに印字があった。
 千円札一枚で会計を済ませると、店主らしきご主人は娘に棒付きの飴を下さった。娘は無邪気に喜んだ。店を出て、かき氷も食べることにした。たったの100円で、大盛りだった。透明度の高い、でかくて四角い氷を削っていた。溶けにくく、身体がきっちりと冷え、雑味のない、よくできたかき氷だった。よい氷屋の氷を使っていると思われた。
 それなのに、俺はそれきり亀八を訪れていなかった。やはり娘にねだられて、かき氷は何度か一緒に食べたが、店には入らなかった。ちょっと引っかかることがあったのだ。店内に掛けられたカレンダーが、仏教系の新興宗教団体のそれに見えた。それだけだった。

 思い返しても、ほんとうに、ただそれだけだった。そんな俺は、仏教も新興宗教もろくに知らず、区別がつかない。興味がなかった。なのに仏教はよくても、新興宗教は胡散臭いと思っていた。娘の幼稚園はキリスト教系だったが、やはりよく知らず分からない。私立の幼稚園はそんなものと、気にしちゃいなかった。いい加減だった。まるで、マルチとねずみ講の区別もつかぬほど何も知らないのに、ただ何となく避けたようなものだった。
 俺は反省したのだろうか。よく分からない。分からないが、亀八のうどんをまた食べたくなったのだ。

「他人うどん、セットでお願いします」

 550円、ゴーゴーだ。そして五分ほどで出てきた。早い。
 鶏卵と鶏肉で親子、鶏卵と牛肉で他人が基本だ。とはいえ、値段からいって豚肉を予想していた。それが牛肉だったので、まず驚いた。潔く甘く味付けしてある。牛の調理に砂糖をけちるのは野暮だと、健康を気にする奥さんに苦言を呈したことがあった。牛脂と砂糖と醤油で、人は幸せになれる。その旨味に、つゆが負けていないのがまた驚く。出汁が利いていた。亀八のつゆは関西風というのか、出汁の色だ。関東で生まれ育ち、蕎麦好きの俺にとってつゆとは醤油色だったので、色味が薄いのにと意外に思わざるを得ない。このつゆと、うどんが絡んでいた。俺の感覚だと、蕎麦はつゆと絡まない。すこし平たく、太くなったり細くなったりしながらうねるうどんは、いかにも手打ちらしい姿だ。平均すれば太麺でも細麺でもなく中庸で、もっちりしていて、つるっとしていて、艶があり、腰はあるが、ありすぎない。讃岐うどんには男麺と女麺があるそうだ。にわかの俺は亀八しか知らないが、亀八のうどんは女麺に違いないと思えた。 それが、つゆと、俺の舌と、絡んだ。旨かった。滋味を感じた。
 ところで、件のカレンダーは見当たらなかった。欅の板に漢字の羅列を印字した額のようなものはあり、仏教らしく思われたが、新興宗教ぽくはなかった。どちらにせよ、俺には分からない。どちらにせよ、そんなこと、どうでもよいではないか。
 この店も、ここの人も、間違いなく地元の人たちに愛されている。地元の人たちも愛されている。それでいい。どうか、わが家もそうありますようにと、祈りたかったが、祈る術を知らない俺はうどんを啜り上げた。
 マルチとは、ねずみ講に似ているというよりも資本主義社会そのもので、俺たちはとっくにねずみ同士に過ぎない。

 さてそれから俺は、通院にかこつけて、毎月亀八のうどんを食べることにした。亀八の営業時間は昼どきのみで、日曜と祝日は休みだった。
 そうして数ヶ月間のお楽しみを重ねた、九月の残暑日。
 暖簾をくぐり、ガラガラと引戸を開けると満席だった。病院で待たされ、いつもより遅くなった。忙しいらしく声もかけられず、棒立ちになった。するとまた背後でガラガラと音がして、何やらふわりと、一瞬、やわらかくもたれかかってから離れた。振り返ると、見覚えのある奥さんだった。どきりとして固まった。男ならそうだろう。息子さんが娘と同じ幼稚園で、学年は違い一つ下だったが、目立って美しい人だった。うちの奥さんのダウンでもある。
 つるりとなめらかな透明感ある白い肌と輪郭に、小ぶりながらも整ったパーツをそなえた、正に卵に目鼻といった美人だった。黒髪もつるりとして長く艶やかで、肌の白さとのコントラストが映えた。睫毛も長く黒く、瞳もきらきらと黒いと思われるが、実際にじろじろと見たことはない。小柄ですんなりとした身体つきは若々しかった。いつも、ぞろりと長いワンピースをお召しのような気がしていたが、うちの奥さんもそう言っていて、気のせいではなかったと分かった。
 うちの奥さんは、この奥さんと一緒にマルチのビジネスをしたがり、結局ふられたが、一時期熱心に口説いていた。うちの奥さんはミーハーで、素直に美女を好んだ。ある日には、この奥さんの笑顔を見て、真の美人は顔の下半身が美しいという法則を発見をしたと、興奮ぎみに俺に報告した。いわく、目にはみんなそれぞれに魅力があるものだが、残念ながら口元には美醜も上品下品もある。かねてからこの奥さんの卵形の輪郭には惚れ惚れとしていたが、笑って卵でなくなったときにこそ真価を目撃したそうだ。ちょっと何言ってるか分からなかったが、うちの奥さんが面白いと改めて分かった。俺には、この奥さんの笑顔は想像できなかった。つんとしてもいないが微笑んでもおらず、なんというか、いつも浮き世離れして見えた。
 娘とかき氷を食べに亀八に行ったとき、この奥さんを見かけたことがあった。息子さんと並んでベンチに座り、すでにかき氷を食べていた。高校生と思われる男子の三人組が、ちょうど注文をするところで、俺と娘は順番を待った。「おれ、メロン」「まってまってまって」「えーと」「じゃ、おれイチゴ」「おれ、マン〇ー!」と叫んだ彼は、俺が見たところ、この奥さんに向かって絡んでいた。若いのに、大した度胸だ。嫌いじゃない。そして奥さんは、彼以上のタマだった。慌てるでも困るでも照れるでもなく、牽制するでもなく、何事もなかったようだった。娘もいるのにと、俺の方が焦りまくった。真夏の太陽と人間のうだるような熱気の中、この奥さんだけが清水の流れるかの如くだった。
 そんな回想に浸っていると、うちの奥さんに突っ込まれた。「彼女、つくづく美女よね」と、からかうように言った。「いや、ママもきれいだよ」と俺は言った。「ありがとう。あなたも素敵よ。若いときより、ずっと、今の方がセクシー。眉間の皺が似合ってる。目力も深くなったわね」なんて、うちの奥さんがどこまで本気か知らないが照れた。さすがのポジティブだと感心した。

「いらっしゃい。お待たせしました。お二階へどうぞ」

 われに返った。店主の奥さんの声だった。

「お決まりでしたらうかがいますよ。いつもの野菜天でいいかしら」

 美しい奥さんが頷いた。

「ご主人は?」
「えっと、他人うどんのセットで」
「かしこまりました。お時間いただきます。ごゆっくりね」

 俺は、二階を利用したことがなかった。学生の団体が上がっていくのは見かけたが。店に入って左を調理場が占めていて、右の奥には階段があった。
 仕草で促すと、その奥さんは軽く頭を下げ、階段の方へと向かった。俺も後に続いた。
 階段は幅が狭く急で、奥さんが衣服の下で腰をくねらすのを、目の前で見詰めるはめになった。素材は麻のようで透け感があり、色はバーガンディーで秋めいたワンピースの後ろ姿は色っぽく、くらりときた。上がりきった左手に藍染めの暖簾が長くかかっていて、奥さんが分けた先に畳が見えた。
 胸が高鳴っていた。ぎこちなく靴を脱いだり揃えたりする。畳に膝をついたそのとき、奥さんの素足が目に飛び込んだ。顔と同様のなめらかな白い肌が、つま先まで続いていた。小さく揃った足指はやわらかそうで、口に含んでしゃぶりたくなった。爪には白に虹色の光沢がきらめくペディキュアが塗られていて、真珠のように、水鏡のように、艶やかだった。と、その十枚に俺の阿呆面が映り込んだ。 かっと全身が熱くなり震えると、口が塞がれた。白い足指たちが、口いっぱいに差し込まれていた。うっとりと目を閉じた。飲みこめない唾液があふれた。
 鼻息を荒くしながら、夢中でしゃぶり、一本一本を舐めまわした。指の表も裏も、指の間も、まんべんなくやわらかくすべすべとしていた。舌で確かめてもなお、つぎ目らしいところがなかった。ばさりと布の落ちる音がした。目を開けると、一糸まとわぬ女がそこにいた。つぎ目がない、と思った。
 いつの間に、仰向けになった俺の上で、つぎ目のない女が揺れていた。湯にひろがり流れるようにゆったりと、夢のように白く揺れていた。
 ゆるやかにつつましく膨らむ二つの胸に手を伸ばし、なでると、小さくも健気に固くなるものがある。つぎ目がない、つぎ目じゃないと思いながら、手のひらで何度も小さな突起を転がし、はじく。されるがままの女は顔をしかめ、そのたび跳ねては厭厭するように腰を強く擦り付けた。か細い声が上がり、がなりたてる空調と入り交じっては消えていく。なのに水音はぬちゃぬちゃと、熱くしつこく耳奥に這入りこむ。
 つぎ目がない、つぎ目がないのなら、これはなんだ。どこから熱く沁みわたる。無数にむっちりと包み込まれて圧し殺されそうな、俺の身体はどこにいる。いないのか。幻なのか。確かめたかった。女の両腿をわし掴み、思い切り広げた。
 二本の脚はあっけなくくねりと翻り、まるで裏返った。そのしなやかな無抵抗とあべこべの、ねじ切られそうな快感に締められ死にたくなる。でもまだ、見たい。まだ見てない。遠くなる意識と視界をなんとか取り戻し、そして見た。
 脚のつけ根の肌はやはりつるりとして白く、つぎ目はなかった。つぎ目なくなめらかなままくっきりと窪み、それからうねり上がって高く豊かに張りきった丘を描いていた。僅な繁みの、緑に濃く濡れた陰から、秘められていた桃肉色が覗いた。

ジジジジジジジジジ

 けたたましい警報音が鳴り響いた。
 なんだ?
 おののいて硬度を失った俺はつるんとそこから滑り落ちた。

ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、

 急かすようにブザー音が続く。
 彼女は何事もなかったように俺から身を離し、ふわりとワンピースを羽織った。そしてウエストあたりの前ボタンを一つはめた。
 まさかノーブラか。下は?

だん。だん。だん。

 階段を上がる足音と振動。ヤバイ。人が来る。
 正気に返れば、俺は下着とチノパンをちょっと下ろして事に及んでいたようで、とりあえずずり上げた。

「失礼しますねー」

 声をかけると同時に暖簾を分け、店主が遠慮なく入ってきた。彼女はすっと立ち上がって店主に背を向け、悪びれることなく落ち着きはらったまま、丁寧な仕草で、一つずつ、ワンピースに連なった前ボタンをはめていく。俺は上体を起こし、焦りながらがちゃがちゃとベルトを閉め、ファスナーを上げた。
 店主をうかがうと、気づいているのかいないのか、いや、気づかないはずはないが、そ知らぬ顔だった。部屋の奥の壁にはまったステンレス製の箱のような棚のようなところから、出来上がったうどんの膳を取り出していた。するとあの音は、配膳用エレベーターのものだったのか。
 店主はてきぱきと、当然のように彼女と俺を相席にして膳をセットした。

「野菜天と他人セット、お待たせしました。ごゆっくりどうぞー」

 ニヤニヤするでもない、咎めるでもない、自然な様子のまま店主は出ていった。いや、決してこちらに視線をやらないのは不自然だが、それすら自然だった。どんだけいい人なのか。いや、そうじゃない。いや。
 彼女が給水器の方へ行った。横で伏せられ積まれたグラスから二つ取り上げ、水を汲んだ。

「あ……」

 すみません。大丈夫です。俺が。……ちょっと、声にならない。胸が詰まっていた。
 片手に一つずつグラスを持ち、ワンピースの長い裾を揺らしながら、でも腰から上は不思議と揺らさず、胸のあたりだけ見ると滑るようにすうと前へと彼女は歩く。卓の前まで来ると、膝は曲げすに腰だけを折って膳へと腕を伸ばした。白い二の腕に、黒髪の束がはらりと落ちて絡みつく。とん、とグラスを置く音がした。慌てて俺は膝をついたまま卓までにじり寄り、席についた。流れて広がる裾をとりまとめながら、彼女はきちんと正座した。俺は胡坐をかいていた。
 気まずい、のとはちと違うよう気もしたが、どうしてよいか分からなかった。緊張はしていた。うつ向いたまま、箸をつけられず、水を飲みこめそうにもなかった。

「この野菜天うどん、竜宮城に見えるんです」
「…………へっ?」

 しゃべった。
 どんな声だった?
反芻したくてどこかの宙をあがくも空しく、思い出せない。しかし意味が落ちてきた。
 竜宮城とは。
 彼女のうどんを見詰めた。見詰めたが、うどんは見えない。具ですっかり覆われていた。天麩羅はいずれも、黒っぽい鉢の縁からはみ出る賑わいだ。丸く渦巻く玉葱のかき揚げが二つ、人参といんげんのかき揚げは太く短く縦に揃って一つずつ、ちくわ一本は堂々と、柱が生えたようでもある。加えてわらわらと盛られたわかめの深い色艶に、白ごまと小口ネギの明るい緑が映える。刻み海苔はごく細い。そして肉厚なかまぼこ二枚を縁取るピンクに目を奪われた。その人工的な発色は、健康指向のわが家の食卓では決してお目にかかれない、毒々しい鮮やかさであり、禁じられた華やかさだった。

「分かります。なるほど」
「……すみません。お気を遣わせて」
「いえ。ほんとうです。これは、竜宮城です!」

 言い切って、彼女を見た。目が合った。しかし、見詰めるより見詰められてしまう。勝ち負けではないが、はなから勝負にならない。見開かれた瞳はまるでこの世の穢れを知らないかのように黒は深く、白はうす青く、澄んでいた。その瞳も、長い睫毛も、肌も、髪も、唇も、うっすらと濡れた一膜を纏い発光しているようで堪えられず、それでも堪えると行き場のないものが身体を火照らせた。耳まで紅潮していくのが分かった。まぬけ過ぎる。
 ふっと、彼女の目が弛んだ。卵が割れて、笑みがこぼれた。


(了)


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