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イノセンス音楽とリミナルスペース

2023年4月30日23時55分 改訂

この記事は、私が完全に主観でボカロのイノセンスというジャンルについて語ったものなので、妄言だと思って読んでください。

イノセンスという言葉の扱いづらさ

ここで言うイノセンスとは、2017年にPuhyuneco氏が投稿したアイドルという曲を契機に広がっていった、ボカロのアンダーグラウンドシーンにおける音楽ジャンルのことである。しかし、このジャンル分けは、明確な使用ツールや音の体系による区分(例えば、狭義のロックというジャンルはギターという使用ツールと、それによって演奏されるペンタトニックスケールを基調としたリフという音体系に特徴付けられる)ではなく、精神性、思想性が基となった区分なので、イノセンスを客観的に定義することは難しい。(あるいは、できないと言ってもいいと思う。)

「イノセンス」とはサウンドに基づいた音楽ジャンルとしての区分ではなく、専らその精神性によって分類されるものであるので厳格な定義を与えるのが難しい。因果氏は自身のブログでこれを「扱いにくいバズワード」(因果. 10選+αで語る2017年ボカロシーン. はてなブログ. 2018/01/28. https://nikoniko390831.hatenablog.com/entry/2018/01/28/124051 , (2022/11/24))と指摘、キュウ氏も音楽的アプローチからの規定性が希薄であることから「イメージが掴みにくい」(キュウ. ボーカロイドとイノセンス. note. 2017/09/24. https://note.com/rooftopstar/n/nbf5d12b2bdd6 , (2022/11/24))と記述している。

表現するVOCALOID 〜ボカイノセンスにおける語り手の性質〜

イノセンス音楽の特徴

多くのイノセンス音楽に共通する特徴として、作為性の希薄さ(より厳密には、作為性が希薄というよりは、作為性が作為的に脱臭されているという言い方のほうが正しいと思われる。なぜなら、音楽を作るという行為は作為そのものだからである。)や、ボーカロイドの心や自我のなさや無機性の強調といった、ある種の人ならざる感じ、もっと言えば人の存在の欠落感が挙げられるのではないだろうか。

ボカイノセンスにおいては作り手の脱臭がひとつの鍵となるように思われる

表現するVOCALOID 〜ボカイノセンスにおける語り手の性質〜

元々、無垢を表現するための手法として、心の無いものに頼る手法が存在しました。そして方法論として、当事者では無い声(特に子供の声)を用いる、あるいは声を加工する、などが存在していました。それから技術は発達し、そこに新たな心のないものである機械を用いる手法が台頭してきます。ところが機械による声が存在しなかったため、機械によるイノセンスのある歌ものを表現することが出来ませんでした。それを可能にする最後のピースであり、しかも当事者では無い声として用いることが出来る、それがボーカロイドであると言えるでしょう。

ボーカロイドとイノセンス

また、イノセンス音楽の詞においてよく見られるのが、言葉の持つ文脈(言葉の遷移確率や自然なコロケーション等)や、そういった文脈から生まれる日常性から乖離した、異質な言葉を使う技法である。(この技法は、詩の理論でいう異化に相当するものだと思う。)そして、こういった文脈や日常性の剥奪も、ある種の欠落である。
つまりは、欠落とそれによるうっすらとした寂しさ、孤独感、違和感、不気味さが、イノセンス音楽においては重要な要素なのかもしれない。

先に挙げたようなイノセンス音楽に見られる詞の特徴は、ボカロのメインストリームでよく見られる、意味もろともリリシズムが破壊された詞(例えば千本桜やマトリョシカなど)とは一線を画すものである。なぜなら、イノセンス音楽の詞における、異質な(あるいは、意味の不明瞭な)言葉遣いは、結果的にはリリシズムに貢献し、聴く人(というか主に私)の心を揺さぶる場合が多いからである。

えっ 隣の部屋から聞こえてた笑い声が
いつからそこにいたのか
一目で
無垢。そうだとわかる

誰かが言うように、そのように、僕も、そう思った

昔は大切にしてた
小さい人形を貼り付けたアクリル板を
捨てるからと、君に見せたら
その目がキラキラして驚くから

その目が その目に その時にはもう

心の色と名づけた方程式を
壁に書いて見せてくれた

その理論には
優しさと混乱と可能性があって

僕は、なぞるだけで部屋の壁紙に緑色できれいな線を引く、その指先に見とれてた

少し得意げに笑った

誰かが言うように
誰かがそう言うように
誰かがそう言うように

白色できれいな光を放つから
僕は

白い太陽/雨月

動物と人間のあいだで きみが好きって そんな青春
コンクリートに埋まるさよなら
ふり返ったら咲いてたらいいな って
初恋でとなり同士
一言もしゃべらないまま
夏休み、部活帰りに きみとばったり 夕立のなか
偶然アイドル 偶然にアイドル

アイドル 初音ミク

このように、使い古されておらず目新しい、異質な言葉遣いから、詞全体のリリシズムが組み上がっていく様が、イノセンス音楽の詞の本質であるように思える。

また、音としての特徴を見ると、エフェクター等で強く歪められた音や、輪郭がぼんやりした音や、よれた音を使った曲が(全てではないにせよ)多いことが挙げられるのではないだろうか。音を歪めることや輪郭をぼやかすことは、耳慣れた素の楽器の音から離れていくことでもある。また、よれた音は、現実から遊離していくような独特の浮遊感をもたらす。
また、多くのイノセンス音楽のリズムはスローテンポである。(少なくともハイテンポな曲はかなり珍しい。)このスローテンポに、先に挙げた音の効果も相まって、イノセンス音楽を聞いていると、現実とは異なる、どことなく懐かしく奇妙な幻の中に入っていくような感覚になることが多い。(完全に主観だが、イノセンス音楽とMy Bloody Valentineの音楽は、幻っぽさという点では通じるものがある気がする。)

そして、先に挙げたような詞や音に触れたとき、私はそこに、『ここではないどこか性』を強く感じるのだ。『ここではないどこか性』とは、ここではないが、どこかではあるという性質である。つまり、自分が日常的に触れている、慣れ親しんだ意味世界ではないけれど、どこか遠くにはその異質な世界が、意味を持って存在するかのように感じられるという性質である。
あるいは、『ここではないどこか』は過去の世界なのかもしれない。つまり、自分が子供の頃にいた、様々なものが異質で目新しい、知らないものや理解できないものがたくさんあった世界(例えば、夜に誰もいないリビングで水を飲んだあと、リビングの電気を消すのが怖かった世界)をそこに投影しているのかもしれない。だから、イノセンス音楽には、どことなく郷愁感があるのかもしれない。

イノセンス音楽とリミナルスペースの類似性

突然だが、以下に列挙する風景を頭に浮かべてみてほしい。
・誰もいないホテルの廊下
・閉店後のショッピングモールの店内
・夕焼けと終業の放送が永遠に続く無人の学校
・ポテトが揚がった音だけが鳴り続ける薄青い無人のマクドナルド
・全ての方向に無限に続いていく誰もいない競泳用プール
・波のない夜の海にまっすぐ沈んでいく道路と、水面から立つ無数の街灯
このようなスペースに共通して感じる、そこはかとない欠落感、寂しさ、孤独感、違和感、不気味さ、既視感、郷愁感、超現実感・異世界感(≒ここではないどこか性)を、まとめてリミナル性(あるいは日本語で際性)と言う。
そして、これらの要素が(全てではないにせよ)イノセンス音楽にもあることは前の項目で述べた通りである。
リミナルスペースを成り立たせるのに重要なのは、そのスペースが持つ文脈や日常性の剥奪と無人感(あるいは人ならざる者がいる感じ)である。

リミナル・スペースに共通して現れる特徴に「無人」であることが挙げられる。移動する人々が不在の交通空間。人の気配だけが消え去った生活空間。これらは、それが本来意図して設計されたコンテクストから外れてしまっている。場所から本来の文脈が剥奪されたとき(脱文脈化)、リミナル・スペースが立ち現れる。見慣れた空間の片隅に存在する暗がり。認知の閾(liminal)において発生する、ほんの少しの違和=ズレ。日常に潜む異化作用。

【コラム】Liminal Spaceとは何か

そして、これらの要素はイノセンス音楽の成立においても重要なものである。そういう意味で、イノセンス音楽とリミナルスペースは似た概念であると言えるのではないだろうか。

自分で撮った、ちょっとリミナルなコンビニ
霧が出てると何かリミナルっぽい?

楽曲紹介

完全に主観ですが、私がイノセンス性とリミナル性の両方を感じた楽曲を紹介します。

アイドル

ほんの少しは自分から

白い太陽/雨月

参考資料

ボーカロイドとイノセンス

表現するVOCALOID 〜ボカイノセンスにおける語り手の性質〜

10選+αで語る2017年ボカロシーン - 美忘録

VOCALOID-リリックをめぐって - 美忘録

【コラム】Liminal Spaceとは何か

最後に

めちゃくちゃこじつけのやばいオカルト記事を書いてしまいましたが、唯一言えることは、これが私にとってのイノセンスだということです。

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