one(人、物、ひとつ、ひとつである、1)

 僕にとって永山くんは憧れの人だった。

 騒がしいこの男子校生活の中、同い年とは思えないくらい落ち着いていて、真面目だけどおっとりしている永山くんの存在は僕の「安らぎ」だった。
 クラス、いや学年でも常にトップの成績を誇っていた彼。それを自慢したりはしなかったけれど、テストの順位が出る度にちょっとはにかんだように笑うその仕草は、どちらかというと体育会系なノリの学内ではけっこう浮いて見えた。そんな所も、僕の憧れだった。

 その永山くんが卒業後、留学を考えていると知って僕は少なからずショックを受けた。
 彼はこんな田舎町には似合わない人だとは思っていたけど、日本からもはばたいて行ってしまうなんて……。

 留学するには一定の検定試験にパスしなければいけないとかで、永山くんは昼休みも食事しながら難しそうな本を読んでいた。彼なら間違いなく試験に通るだろう。そして卒業したら、僕のたった一つの憧れが永遠に飛び去っていってしまう――。

 永山くんが試験に落ちたという噂を聞いたのは、冬休み間近の寒い朝だった。

 僕は冗談だと思ったが、その日の昼休み、永山くんの姿は教室にはなかった。
 自分でもどうしてそんな事をしたのか分からないけど、僕は弁当を食べるのも忘れて永山くんを探した。図書室や視聴覚室。彼が行きそうな場所を歩き回った。

 昼休みが終わるギリギリのタイミングで、永山くんは見つかった。西館のトイレの横で、壁に寄りかかり「みこすり半劇場」を読んでいた。
 僕はその時までほとんど彼と喋ったことが無かったけど、思わず「どうしたの?」と言ってしまった。

「ああ、ちょっと時間が余ったから」
 永山くんはいつもの穏やかな笑顔で振り向いた。僕は動転してしまい、「試験、残念だったね」なんていらない事を言ってしまった。

「うん。でもいいんだ。何だか吹っ切れた気分だよ」
「でも……永山くんだったら絶対受かると思ったのに」
「僕もそう思ってたんだけどね、本当は」

 そう言って永山くんは「みこすり半劇場」を閉じて、僕の方を見た。永山くんの顔を正面から見たのは、それが初めてだった。

「……あのさ、英語で「1」って何て言うか分かる?」
 僕は永山くんの視線に焦ってしまい、一瞬彼が何を言っているのか分からなかった。

「英語で「1」って、何て言うか分かる?」
「そ、それくらい僕だって分かるよ! いくらなんでもさ……」
「そうだよね。英語で1は「one」……」

 そう言って永山くんは遠くを見るような眼をした。

「ねえ、「one」ってさ――」
「う、うん?」
「――「おね」って読めるよね」
「……は?」

 絶句する僕を前に、永山くんは突然膝を折って廊下にへたりこんでしまった。びっくりして固まっていると、永山くんは肩を震わせて笑いだした。「「おね」だって。プー!」とか言いながら……。

 後でそれとなく担任の先生から聞いたところによると、永山くんは面接で落とされたらしい。

 次の日から彼は授業中のエロ本回しにも積極的に参加するようになり、みんなと一緒にジャージのズボンを頭にかぶって遊び、卒業式の記念写真ではシャッターチャンスを狙って鼻の穴にピンクのチョークを挿していた。とても、楽しそうだった。

 僕は東京の三流大学になんとか合格し、もうずっと実家には帰っていない。永山くんは家業のラーメン屋を継いで地元で働いているらしい。同じく家業を継いで商店街に入った友達から聞いたが、毎年夏祭りでは白いスーツにサングラスでカラオケを熱唱し、自ら「南町商店街のATSUSHI」と名乗り盆踊りに乱入しているらしい。去年、子供も生まれたという。

 僕は今でも学ラン姿の永山くんを思い出す。勉強をしている永山くんや、あの日、一度だけ僕の目を正面から見つめた永山くんの顔を思い出す。

 永山くんは、僕のたった一つの憧れだ。

(終)

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