他人様色

 改めて、オレンジ系のチークは合わないんだなというのが分かった。仕事休みのトイレ休憩、蛍光灯の灯りに照らされた私の顔は昭和のマネキンみたいに古臭い表情を見せていた。
「敷戸さん、またメイク変えた?」
 隣で手を洗っていた松谷ルリが鏡の中で視線を合わせてきた。白い顔にピンクのほっぺた。ぱっつん前髪に原宿系?のガチャガチャした色合いの服。齢は私とそう変わらないらしいけど、外見だけなら10歳以上違って見える。
「まあ、はい」
 曖昧な愛想笑いをして手に残った水気で適当に髪を撫で付ける。正確には、メイク道具が変わった。今日は大田区在住の御門輝美さん(37)のコスメをお借りしたからだ。

 女と寝ることの何が一番楽しいかと聞かれたら、私は「化粧」と答える。
 一発ヤッた次の朝、裸の尻をベッドに並べて慌ただしく朝の身支度をする瞬間が最も喜びに溢れている。そのひとときのために夜通し丁寧にセックスすると言っても過言ではない。
 相手の家でヤッたときは、必ず化粧道具を借りる。ファンデなんかは嫌がられる場合が多いから、アイブロウとか下地だけとかそんな感じで。昨夜の御門輝美さん(37)は太っ腹で化粧水からアイシャドウまで全部使わせてくれた。5歳年上の女の化粧品は、私が普段使ってる物より平均単価3千円ほど高いラインだった。さすがにノリが違うぜ。色は合わないけど。

「敷戸さんってコスメ好き系?」
 無色のリップクリームを塗りながら松谷ルリはまだ鏡の中で私を見ている。
「ああ、まあ、好きです。わりと」
「けっこう色んなの持ってそうだもんね」
 ”サバサバ”な言葉と視線に隠されたさぐるような好奇心の色味。同期派遣組の中でも明るく個性的と言われているサブカル女子の松谷ルリが実はゴシップ好きの「ふつうの人」なのももうだいたい分かっている。可愛いっちゃ可愛いけど、もうちょっと落ち着いた雰囲気の女が好きだ。
「松谷さん詳しそうですね」
「専門、美容系だったんだ。学校。だからそこそこ詳しーよ」
「へえー」
 じゃなんで今膝関節サポートサプリメント通販会社のサポセンでなんか働いてんだ。とは言わない。私だってその点に関しては人のことは言えた義理ではぜんっぜんないからだ。世の中を宙ぶらりんに漂う、わてら陽気な非正規雇用。松谷ルリのおかっぱに整えられた茶色い髪の隙間からのぞく「個性的」なピアスをちらっと見ながら、私は自分の髪に残る人んちのシャンプーの香りを吸い込んだ。

 次の日はチークをつける事ができなかった。木更津出身の森川奈緒さん(26)は日焼け止め塗って眉毛描けば上等というライフスタイルの人で、たしかに会ったときも化粧っ気は薄いなと思ったのだけど、酔ってたし、何よりアースミュージック&エコロジーのチェックのブラウスを内側から押し上げるFカップへのときめきが私に愛を語らせたのだ。
「寝坊?」
 休憩ルームで梅&赤飯&ジャンボフランク&野菜ジュースといういつものコンビニ昼飯セットを食べていた私の向かいに、松谷ルリがいきなり座った。
「すっぴん? 今日」
「ん、あー。ちょっと。はい」
 うるっせえなあ、と内心思わないでもなかった。これで松谷ルリが男だったら便所に行くふりをしてさっさと席を立っている。
「クマすごいね」
「あー、昨日、漫画読んじゃって。自転車の……」
 森川奈緒さん(26)の部屋にはきれいに透明カバーが掛けられた漫画がいっぱい揃っていたので、一戦終わったあと私は『弱虫ペダル』を1巻から14巻まで一気読みさせてもらったのだった。超面白かったし今日が会社じゃなかったら残りの全巻読んでたし、ポリシーに反するが続きを読むため今夜も森川奈緒さん(26)宅に行っちまおうかとそわそわしているくらいだ。
「敷戸さんマンガ読むんだ。意外」
「そうですか?」
「マジメそうだし」
 マジメは漫画読まないって、昭和か。松谷ルリのこういう古臭い世間話は、この3ヶ月の間ちょいちょい私をイライラさせている。
「でも」
 松谷ルリはひとつも指輪をつけていない指をグーパーさせながら緑色のアイシャドウをした切れ長の瞳でじろっと私を睨んだ。
「ほんとはそうじゃないかも」
 色を乗せていない唇がにいっと笑う。そして去る。私はあっけにとられて野菜ジュースのストローをパックごと口からぶら下げた。

 その夜、私は森川奈緒さん(26)の部屋には行かなかった。他の誰の部屋にも行かなかったし、自分の部屋に誰かを呼びもしなかった。弱虫ペダルの続きは気になったが漫喫にも入らなかった。松屋にもオリジン弁当にも寄らず、まっすぐ家に帰って豆乳と食パンだけで夕飯を済ませた。
 松谷ルリの「普通じゃない人ぶりっこ」を象徴するような緑色のカビのようなアイシャドウと「可愛く見られたいぶりっこ」を象徴するような甘いピンクのチークが私の網膜に重く留まっていた。

 土日を腐ったナマコのように一人ベッドの中で過ごし、月曜の私は手持ちの安化粧品で適当な化粧をして職場に向かった。ぴかぴかのコールセンターで物知らずの老人に綺麗にパッケージされたハナクソを売りつける仕事は実はやりがいも楽しさも大いにある。私はこの暮らしが気に入っている。だから職場の中に「味」を持ち込みたくないのだ。この時間は、何の感慨もない無味無臭の時間であってほしい。刺激も興奮も欲しくない。感情を動かす一切のものを排除したい。午前9時から午後6時までの間は。
 昼。私はいつもの休憩所を使わず、センターの外に出てマックで昼飯を食べた。腹持ちは悪いし割高だが仕方ない。松谷ルリに会いたくなかった。
「よし」
 何の意味もなく小さく小さくそう呟いてから、最後の一滴までコーヒーを飲み干し仕事に戻った。トイレでも廊下でも松谷ルリには出くわさなかった。

 遅くとも6時15分には建物を出る。それはサポセン派遣の最大の利点だ。絶対帰れる。私のブラとパンツの下のハートはそわそわと浮足立っていた。明日の朝を乗り越えるには新しい化粧品が必要だ。
 新宿通りを早歩きで進み、とりあえず世界堂横のベローチェに入って作戦を練ることにした。携帯に蓄積されたお名前からどなたか選ぶか、道を渡って二丁目に突っ込むか。抹茶オーレを飲みながら私は真剣に真剣に考えた。明日の朝にはこの顔に違う色を乗せていたい。紫のシャドウ、灰色のアイブロウ、黄色い下地、青いフェイスパウダー。なんでもいい。そうしなきゃ。そうしないと。

 そのとき。斜め前の席に奇跡が座っているのが見えた。
 アクシーズもどきのクリーム色のフリルブラウスにインド綿っぽい茶色のロングスカート。肩までの黒髪に眼鏡。テーブルの上には紀伊國屋の袋が置かれ、真剣な表情で『弱虫ペダル』のたぶん最新刊を読んでいる。重めの前髪、ピンクブラウンのアイシャドウ。大丈夫。いける。
「あの。すみません、ペダル好きなんですか?」
 彼女がけげんそうに私を見たら次は『あっ、ごめんなさい急に! あの、私もすごい好きなんですけど周りに話せる友達いなくてつい……』だ。
 奇跡の女が、コミックスをテーブルに置いた。
 ふわっと太めに描かれた眉。丁寧にリキッドアイラインを引きナチュラルな付け睫毛をした眼。毛穴のほとんど目立たない鼻の頭。
 抹茶オーレが喉を逆流しそうになった。それは、松谷ルリの顔だった。

「敷戸さんて、やっぱりダメな人なんでしょ。ほんとは」
 そう言って酷薄に笑う松谷ルリの頬は、やはりきれいなピンク色をしていた。
 そのチーク、使いたい。使わせてくれ。
 私の肌がそう叫んだ。熱く。強く。

(終)


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