峠の中華(1)


 ほんの一年前まで、愛や恋で飯を食っていた。もう、夢か悪い冗談にしか思えない。

 いま高瀬亨の目の前にあるのは汚れた皿とぼろぼろのスポンジだけだ。昼飯時の混雑が一段落したあとの厨房は、油まみれの食器がうずたかく積みあがっている。その全てを一人で洗って拭くのが主な仕事。日給四千円で、三十八歳の肉体を朝の六時から深夜零時まで働かせる。
  人気の無くなったドライブイン食堂の中には古いテレビのひび割れた音声だけが響いていた。何年か前にそこそこヒットしたゴールデンタイムの恋愛ドラマの再放送だ。スポンジを握る手が、一瞬止まった。
  その企画書を書き、プロデュースしたのは、高瀬だ。
  たった一度、流行りの遊びに手を出す気分で出会い系サイトを利用した。サクラに引っかかって終わりかと思ったが援助希望だという相手はちゃんと現れた。少し垢抜けない雰囲気の子で十九歳のフリーターだと自己紹介された。土砂降りの雨の日だった。郊外のホテルで事を済ませ最寄りの駅まで送っていく途中、高瀬の車はスリップし電柱に激突した。
  割れたフロントガラスで怪我をし、二人とも救急車で病院に担ぎ込まれた。そのとき身元確認のため開けられた相手のバッグから学生証が出てきて、高瀬は自分の人生が終わったのを知った。彼は十六歳の高校生だった。
 事件は派手に報道されることはなかった。しかし職場であるテレビ局にはあっさりクビを切られ、相手側への示談金と医療費、即座に離婚を申し出た妻への慰謝料で、形のあるものも無いものも何もかもを一度に失った。
  すべてがあっという間に変わった。自殺したり自暴自棄になるほどの愚かさや勇気も無く、返り咲こうという情熱も世間の目に耐える力も生まれてこなかった。ずぶといと思っていた神経は、自分で思っていたよりずっと脆かった。

 夜の十一時が過ぎ長距離トラックの運転手たちが出て行くと、ドライブインはまた静かになる。店は十二時までの営業だが、今夜はこれからもう一つ大仕事がある。
「今日は二十二人だってさ」
  店主の原町がカウンターで口紅を塗りなおしながらぶっきらぼうに言った。おそらく五十がらみのこの女店主と高瀬の二人だけが、このドライブインの店員だ。
 「いいよ、そんな事しなくて。どうせ汚されるんだから」
 高瀬は黙ってテーブルを拭く手を止めた。原町の言うことに逆らったことは一度もない。面倒くさいからだ。炊飯器や皿を用意している間に駐車場に大型車が入る音が聞こえてきた。
 「カヨちゃん、いつも急で悪いね。これ、お土産」
  引き戸を開けて、灰色の作業着姿のずんぐりした男が入ってきた。煎餅かなにかの袋を掲げてにやにや笑っている。
「あらーありがとう。亨ちゃーん、工場長におビールさしあげて」
 媚を含んだ原町の声がカン高く響く。黙って瓶ビールとコップを二つ持っていくと、すぐにまた戸が開き、今度は大勢の男たちが次々となだれ込んできた。
  そう広くない店の中が、一瞬で異国のざわめきで満たされる。全員この近所のスクラップ工場の従業員たちだ。ほとんどが外国人で、たまにこうしてトラックの荷台に乗せられ夕食を食べにやってくる。
 汚れた作業着姿の男たちは、肌の色も喋る言葉もばらばらだ。大声で笑いあいながら席に着き、手早く器や箸を回しあい、餃子と白飯とスープだけの「定食」を勢いよく食べる。
 よく笑う連中だ、と高瀬はぼんやり思った。こんな場所に何がそんなにおもしろいことがあるというのだろう。テレビのチャンネルが勝手に変えられた。ひな壇に座ったグラビアアイドルが映り、歓声があがる。下卑た笑いも聞こえるのは、日本人が言うのと同じような卑猥な冗談を言っているのだろう。   画面の中の女たちの細いふくらはぎを見ながら、高瀬はその香水や肌のにおいを思い出そうとしていた。人の肌に触れずに過ごしてもうどれくらいになるのか。以前は素人玄人を問わず三日と空けずに誰かを抱いていた。絶倫と評判だった。だがそんな衝動も、スイッチを切ったようにぱたりと止まってしまった。そもそも勃起しなくなった。勃たせようという気にもならない。
 わっとまた大声があがったのでテレビに目を戻すと、若いアイドルがかなりきわどい衣装で歌い踊っていた。店の中の熱気が上がる。男たちは全員、食べるのを止め食い入るようにそれを見つめる。
 その中で、ひとつだけ、テレビの方を向いていない頭があるのに高瀬は気付いた。
 (幽霊……?)
  一瞬、本気でそう思った。紙のように青白い肌をした男が隅の席で黙々と食事を続けている。年はかなり若そうだった。棒のように痩せていて、ぼさぼさの黒い髪が不揃いに伸びている。うつむいていて表情はよく見えない。異常にリアルなマネキン人形を見たときのような居心地の悪さを感じて、高瀬は思わずその男の胸や肩の動きを凝視した。呼吸をしているのか確認したかった。
 男は細い指先で箸を使い白飯を口に運んでいるが、その仕草はものを食べるというよりはシュレッダーにゴミでも押し込んでいるように機械的だ。
 騒がしい食堂の中、高瀬とその男だけが、無言だった。
 周りにいる同僚たちも、男に声もかけなければ見向きもしない。録音スタジオの金魚鉢の中に入ったように、しんと周囲の音声が遮断されたような気さえする。
 ふいに、男の手が止まった。高瀬は無意識に唾液を飲み込んだ。うつむいていた顔がゆっくりと正面を向こうとしていた。
「亨ちゃん! もう一本持ってきてくんない」
 突然、金魚鉢の静寂が破られた。
 高瀬はびくっと背筋を伸ばし、ぎくしゃくしながら厨房に向かう。
 心臓が、大きく跳ねていた。見てはいけないものを見てしまった気分だった。本当に、幽霊や妖怪と出会ってしまったような。
 しかしビール瓶を持って戻った時、男の姿はすでに無かった。
 ただ、幽霊ではない証拠に、テーブルには空の食器と箸が乱暴に放り出されていた。

 次の日は、朝からやけに気温が高かった。
 仕事は特に変わったこともなく、いつもと同じように皿を洗い掃除し、料理の仕込みをするだけで時間が過ぎていく。
「亨ちゃん、今日はもういいわ。ヒマだし早仕舞いしよ」
 時計を見るとまだ十一時にもなっていなかったが、原町はさっさと安っぽい花柄のエプロンを外し化粧を直していた。
「じゃあ、お先に失礼します」
 高瀬も白いゴムびきのエプロンを脱ぎ、適当に手を洗ってから店を出る。
 油と葱の匂いのこもる店から一歩外に出ると、土と潮の香りのする生ぬるい風に吹かれた。
 ドライブイン『大泉』は、海沿いの小さい町を東西二つに分けている大きな峠のてっぺんに建っている。地元では屋号ではなく「峠の中華」と呼ばれているようだった。古くて小汚く、やる気もあまりないどこにでもある食堂だ。
 高瀬は深呼吸した。この土地に何か縁があるわけではない。事件のあと、解雇と離婚と示談でほとんどの財産を失った。残ったわずかな金で中古のボロ車を買い、意味もあてもなくとにかく東京から離れるためだけに地図も見ずに走り続けた。車中泊を繰り返し金とガソリンが底を尽きかけたとき、たまたま辿り着いたのがこの峠だっただけだ。そのときの『大泉』には、汚れたガラス扉に「店員募集」とだけ書かれた紙が貼ってあった。
 免許証を見せただけで、他に何も聞かれずに高瀬は『大泉』に雇われた。好意や親切かと思ったが、後に原町が極端な外国人嫌いで、この仕事に応募してきた日本人が高瀬だけだったということを知った。
 住む場所も紹介され、なし崩し的にこの町に暮らすことになってもう半年近くが経とうとしている。元は町営住宅だったという朽ちたプレハブのような「アパート」は、店からゆっくり歩いても十五分もかからず着いてしまう場所にある。今帰っても当然、することは何も無い。
 高瀬は立ち止まって少し考え、峠を少し下ったところにある公園まで軽く散歩することにした。
 少しべたつく海風が針葉樹の木立を揺らしさらさらと音をたてる。曲がりくねった長い坂を下ると、ぼんやりと人工の明かりが見えてきた。電話ボックスと自販機が並んでいるだけの空き地に毛が生えたような公園だ。ポケットに手を入れると小銭が何枚か入っていた。コーラくらいは買えるだろう。
 そのときふいに、人の気配を感じた。
 砂地を踏む足音が公園の奥から聞こえてくる。高瀬は無意味に身構えた。とっさに近くにあった大きな植え込みの中に身体を押し込んで隠れる。
 公園から出てきたのは、白いジャージに金髪頭の若い男だった。見覚えがある。あの工場長の息子だ。男は高瀬には一切気付いていない様子で、小走りに工場のあるふもとの方へ去っていった。その背中が消えるのを見届けてから、そっと公園の中を覗き込んだ。もう人影はない。
 ほっとして、ポケットから小銭と煙草を取り出す。しかしその時、暗闇から、再び何かの足音が聞こえてきた。こっちに近付いてくる。自販機と電話ボックスの光の中に、細いシルエットが照らし出される。
 昨夜の、幽霊のような男だった。
 ぶかぶかの作業着姿で、少し猫背にうつむいたまま、まっすぐに近付いてくる。
 どうすればいいか分からず、高瀬はその場で硬直してしまった。男はそのすぐ目の前まで来ると、足を止めた。
 ぼさぼさの黒い髪の下から、切れ長の大きな眼が現れた。濃い睫毛が真っ黒な瞳をふちどっていて、毛筆ですっと描いたような小作りな鼻と唇が、顎の細い卵型の輪郭の中にちんまりと収まっている。白い紙に、黒と赤だけで描いたような絵のように。高瀬は思わず、息を飲んでその黒い瞳を見つめ返した。幽霊は、きれいな顔をしていた。
 男は突然その場にしゃがみこみ、小石を握って砂地の地面を引っ掻きだした。『胡宇』大きく角ばった文字で、二つの漢字が書かれる。
 「……コ、ウ?」
 呟くと、男は立ち上がり、汚れたスニーカーの足ですぐにその文字を消した。
「コウ?」
「あ、いや、何て読むの」
「それでいい。私のなまえ、コウです。あなたは?」
 ゆっくりだが、聞き取りやすい発音だった。柔らかい、少し高めの声。高瀬は答えるのを一瞬ためらった。昔、報道フロアの連中が取材中に外国人窃盗団から暴行を受けた事件があったのを思い出す。こんな交番もないような田舎で素性の分からない外国人と係わり合いになりたくない。しかし、目の前の男は、答えるのは当然だろうという顔でまっすぐこちらを見ている。
「……高瀬」
 長い沈黙のあと小声でそう名乗ると、コウは小さくタカセ、と繰り返した。
「日本語、分かるの」
「けっこうね」
 昨夜のマネキンのような佇まいとは、まるで違う。目をしばたかせて、興味深そうにじろじろと見つめてくる。
「……どこから来たの。中国?」
 答えは無かった。口元だけで薄く微笑まれ、どきりとする。
「日本、金無いよ。今はそっちの方が景気いいんじゃないの」 
「くに、かえれない。あそこでいきられない――いきていけない」
 穏やかな微笑みのまま、男は手のひらで素早く首を斯き切る仕草をした。やはり名前を教えてはいけない種類の人間だったのではないか。
「何かやらかしたの? 稼いだら帰るんでしょ」
「いいえ。くにすてた。ことばもひとも、みんなすてた」
 あっさりと言われて、高瀬は一瞬口をつぐんだ。まだ二十歳そこそこの子供にしか見えないのに、妙に思わせぶりな態度を取るのが癇に障った。
「じゃあ、あんた何人なの」
 意地の悪い質問だと思いつつ、聞いてみる。
「さあね。にんげんでもないかもね。ぜんぶすてたから。私、なにもないよ」
 踊るように落ち着き無く身体を揺らしながら、コウはまた高瀬をじっと見つめた。切れ長の瞳が、三日月型に細くなる。いやに艶然とした笑い顔だ。
「タカセ、ここでなにしてますか?」
「……散歩」
 コウは笑い声を上げた。
「することないね、こんなとこ。タイクツ。タカセもタイクツか?」
「ああ、退屈だね」
 煙を吐き出し、百八十センチちょうどの高瀬より頭半分ほど低い位置にある顔を見た。おそろしく痩せているが、手足が長く伸びていて、特にすんなりとした細い首が目を惹く。まるで白鳥か鶴のようだ。
「あそぼうか」
「ええ?」
「カネもってる? さんぜんえん」
 何を言われているのか一瞬分からず、高瀬は大声で聞き返してしまった。コウはにこにこしながら答えを促すようにもう一度、さんぜんえん、と言った。
「……そういう商売してんのかよ」
「しゅみ、とじつえき。あってる?」
 悪びれた素振りもなくそう言うと、コウは一歩踏み出し距離を縮めてきた。
「ハンサムね。ちょっと、としよりだけど」
 婀娜っぽく細められた目に、突然胸の奥がぐらりと揺れた。見透かされたような、いやな気分になって背中に冷たい汗が浮かぶ。
「ね。あそぼうか」
 しなだれかかるようにして近付いてきながら、コウは指先で自分の上着を少しはだけさせた。昨日と同じ作業服の上下だが、上着は羽織られているだけで、襟の伸びた白いタンクトップから薄い胸元の青白い素肌が僅かにのぞいている。
「――金も、そういう趣味も無い」
 動揺を悟られないようゆっくり後ずさると、コウはにやにやと意味ありげに笑った。
「私、うまいよ。たのしめる」
「えらい堂々としたホモだな。国帰れないってのはそういう意味か」
「さあね」
「死刑になっちゃうとか」
 冗談のつもりだったが、コウはすぐに表情を硬くし、眉をしかめた。 「――カネ、ないのならしょうがないね。バイバイ」
 早口でそう言うと、さっときびすを返した。
「あ、おい!」
 思わず呼びかけたが、その細い身体は振り返りもせず、そのまま走って公園を出て、暗闇の中に消えていった。
「――何なんだよ」

 狐につままれたような気分で、高瀬はその方向をしばらく眺めていた。正体の分からないもやもやとしたものが、身の内に湧き上がっていた。

※第二話へ続く https://note.mu/tori7810/n/nc1ea7e23e01f

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