動かじのメランコリア

「じゃまでしょう、俺」

 それが佐伯の口癖だった。そして実際佐伯は邪魔だった。187センチ102キロの肉体は18平方メートルのアパートに置いておくにはでかすぎて、便所に入らない限り部屋のどこに居ても視界をジャックし続ける。
 白いTシャツの背中にマンガみたいな筋肉を浮かび上がらせながら、佐伯は俺の部屋で岩のようにじっとしていた。いつまでいんだよ、とは俺は言わなかった。佐伯は邪魔だったけど、邪魔な佐伯が部屋に転がっている状況がいやじゃなかったのだ。インテリアもくそもない寝るためだけの巣みたいな俺の部屋が佐伯でいっぱいになっている。むさくるしく伸びていく髪や髭を眺めているのも、いやじゃなかった。

「じゃまでしょう、俺」
「邪魔だよ。きつねとたぬきどっち」
「たぬきで……」
 部屋の一角はすでに佐伯ゾーンとして完成されつつあった。寝袋とバスタオルを組み合わせて作った佐伯の寝床は屋内ホームレスといった雰囲気を醸しており、俺は炊き出しを配るような気分でカップ麺にお湯を入れたりスーパーの半額弁当を冷めたまま手渡したりした。
 仕事に行って、スーパーに寄り、帰って、佐伯に飯を配給し、風呂に入って寝る。それを繰り返した。けっこう長いこと。俺は佐伯に何も聞かなかった。佐伯も俺に何も言わなかった。

 ある夜、俺は職場の飲み会で久しぶりに酒を飲み酔っ払った。スーパーが閉まっていたのでコンビニに寄って、もうちょっと飲みたいので淡麗の緑の方を2本と小腹がすいたので稲荷ずしを取りレジに向かった。そのとき、雑誌コーナーに並べてあるエロ本が目に入った。紙のエロ本とか、高校以来触ってもいない。というか最近オナニーもしていない。佐伯はどうなのだろう。部屋のノートPCは使われている形跡はなかった。土産に買っていこう。そう思って俺は『べっぴんDMM』と『COMIC快楽天』を棚から抜いて稲荷ずしの上に乗せた。そして部屋に帰ると、佐伯は消えていた。

 佐伯のいない部屋はエンジンを抜かれた車のようだった。佐伯ゾーンも何もかもそのままで、着たときに履いていたつっかけサンダルだけが無くなっていて、俺はからっぽの六畳間の隅でぼんやりと視界の中に佐伯を探した。

 そのとき買ったビールは封を切らず、稲荷ずしはビニール袋の中で青くカビやがてどろどろに腐ってきたのでエロ本ごと全てゴミ袋に突っ込んだ。休日は外に出ないようになった。佐伯の代わりに部屋を自分で埋めなきゃいけないような気がした。俺は部屋に鍵をかけなくなった。だが佐伯は戻ってこなかった。

 14ヶ月後、俺はアパートを引き払うことになった。東北への転勤。知り合いも親戚も一人もいない土地だ。最後の荷物を引っ越しトラックの荷台に載せ点検のために部屋に戻ると、中に佐伯が詰まっていた。ぴかぴかの白いTシャツを着ていた。

「じゃまでしょう、俺」

 佐伯は岩のように座り込み、くぐもった声で言った。

「じゃまだよ」

 俺は佐伯の太い二の腕を掴んだ。冷蔵庫とちゃぶ台の隙間に、まだ荷物は載せられるはずだ。

(終)

  

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