峠の中華(2)

※第一話 https://note.mu/tori7810/n/n6b1873657189

 五時半に合わせた目覚ましよりも早く目が覚めてしまい、高瀬は固い布団の上で長いため息を吐いた。
 昨夜、半年以上ぶりに夢を見た。ひどい夢だった。淫夢というにはあまりに残虐な、後味の悪い嫌な夢だ。昨夜の男――コウを、手ひどく痛めつけながら犯していた。
 あの男に関わってはいけないと、頭の中で警報が鳴る。あれは危ない。今まで数え切れないほどの女や男と遊んできた本能が、そう告げる。
 獣のようにうなりながら布団から這い出て立ち上がった。身体が重い。しかし元は少し太り気味だった身体は、この一年でげっそりと肉が落ちた。俳優になればと言われた事があるほどの風貌もくたびれ果て、貧相な中年男の顔になった。以前の知り合いが今の高瀬を見ても、すぐには気付かないだろう。

 過去に三本の恋愛ドラマを立て続けにヒットさせた高瀬は、『恋バナ達人』などという恥ずかしいアオリを付けられて自局の深夜番組に出演したこともある。あの頃は全てが順調に回っていた。ロケハンと称した経費での旅行も、売れないタレントとの火遊びも、思い通りにならないことはほとんど無かった。女の扱いも男の扱いも、自分に不可能なことはないと思っていた。

 カーテンを開け北向きの窓から外を眺めると、外はまだぼんやりと薄暗かった。
 顔を適当に洗い、寝起きの格好のまま店まで歩く。鍵は渡されているので開店の準備は高瀬の仕事になっている。六時を少し過ぎた辺りに原町も店にやってきて、本格的な営業が始まる。
 今日は珍しく一時を過ぎてもだらだらと客が途切れず、朝食兼昼食のまかないを食べることが出来たのは二時を過ぎてからだった。隅のテーブルで余りものの肉や野菜を適当にあんかけにした中華丼もどきを食べていると、いつもなら煙草を吸って休憩しているはずの原町が厨房に入って何か揚げていた。
「それ、食べ終わったら出前運んでくんない?」
『大泉』は高瀬の知る限り出前や仕出しはしていないはずだ。黙っていると原町は苛立たしげに言葉を続けた。
「工場長のとこさ、今日お客さんが来るって言うから。ビールもケースで持っていって。代金は月末に払いに来るから」
 お客さん、を妙に強調した口調で言って原町は大きな重箱に春巻きや肉団子を詰め始めた。
 数十分後に出来上がった出前は三段重ねの重箱で、真新しい真っ赤な風呂敷にきちんと包まれていた。絶対寄せたり傾けたりするなと念を押され、高瀬は店の車にその包みとビールを乗せエンジンをかけた。

 車で行けば五分もかからず工場には着く。広い敷地の中に山のように廃車や錆びた鉄クズが積み上げてあるそこは、外から少し見ただけでは廃工場にしか見えない。入り口近くの事務所らしいトタン屋根の建物の中には誰もいなかったので、とりあえず重箱だけを持ち裏手に回った。
「おら! 何とか言えやこのタコ!」
 突然、聞こえてきた怒鳴り声にびくりと身がすくむ。
 工場の裏手には、人の輪が出来ていた。
「ほら、ごめんなさいって言ってみな。ゴ・メ・ン・ナ・サ・イだよ。そんな日本語も言えねえのかカス!」
 鈍い、サンドバッグを殴るような音と上ずった男の悲鳴が人垣の中から聞こえた。首筋の毛が逆立つ。高瀬は風呂敷包みを持ったままじりじりと後ずさった。
「……おい、誰だあれ」
 人垣が割れて、中からスーツを着た背の低い男が飛び出してきた。
「なんだてめえ。ここで何してんの」
 明らかに堅気ではない人間だった。五部刈りの頭に大きなピアス、趣味の悪いシャツの胸元に金のチェーンが揺れている。年は三十前くらいだろうが、恫喝の態度が板についている。
「すいません喜多嶋さん! 私がね、ちょっと頼んでたんですよ。お食事ってほどのもんじゃないですけど、この辺ほら、食べる所もあんまりないでしょ」
「あらら、工場長そんな気ぃ使わなくていいのよ。俺も仕事で来てんだからさあ」
 激しく身振り手振りしながら輪の中から出てきた工場長の顔は、青ざめ引き攣っていた。喜多嶋と呼ばれた男は、わざとらしいほどの明るい笑顔になり、胸ポケットからハンカチを取り出して血の着いた拳を気障な仕草でぬぐった。
「ま、でもせっかく用意してもらったもん無駄にするのも悪いしね。休憩しましょか。ちょっと! そこのピン公だかシナチク、テーブルと椅子用意してくんない」
 喜多嶋が肩越しに呼びかけると、工場長が慌てて工員に何か言い敷地の奥へ走らせた。
「お兄さん、怒鳴っちゃって悪いね。それこっちに持ってきてくれる?」
 喜多嶋はそう言うとまた人垣の中に入っていった。一瞬戸惑ったが、大人しく後に着いていく。嫌な予感がした。
「……!」
 ぐるりと作業服の工員たちが囲んだその中心に、同じ服装の男が寝転がっていた。顔も手も血に塗れていて、肌の色も分からない。ぴくりとも動かない。必死に目を凝らしたが、唯一見えた褐色の踝から、男が東南アジア系の人間だということだけは判断できた。
「はいはい、ここに置いてね。ニーハオニーハオ。お兄さんあれ? この辺の人?」
 用意されたパイプ椅子に腰掛け、事務机を叩きながら喜多嶋は高瀬を指差した。ナイフでも向けられたかのように、身体の芯が引き攣る。
「い、いえ、出身はここじゃないんです」
「あっれ、日本人なの? なんだ、見ない顔だからさあ」
 喜多嶋は愛想良く笑いながら、風呂敷包みを震える指で解く高瀬に途切れなく話しかけてくる。
「飲み物とかないわけ?」
「車に、ビールがあります。今取りに――」
「あーいーのいーの、そういう仕事は他にする奴いるから。ちょっと工場長! このお兄さんの車にビールあるんだって! あと椅子もう一個とコップ二つね」
 喜多嶋の怒声に、工場長は再び椅子と机を持ってきた工員を走らせた。
「お兄さん、もしかして東京の人でしょ。なんか雰囲気違うもんねえ。訛ってないしさ。ほらほら、座って座って」
「いえ、その、まだ仕事があるんで」
 すぐに用意された椅子を勧められ、高瀬は身じろぎした。
「カタい事言うなよ、あそこだろ? 峠の中華でしょ。ロクに客も来ないでしょうがあんな店。ちょっとくらい平気平気」
 腕を引っ張られ、強引に椅子に座らされてしまった。すぐにコップとビールケースも運ばれてきて、栓が開けられる。
「まあ、どうぞどうぞ」
 プラスチックのコップにビールが注がれた。強張りながら受け取り、すぐに相手のコップに注ぎ返す。
「びっくりしたでしょ? そこのガイジンがバカな事やってね、ちょっとメッてしてたとこ」
 天気の話でもするような調子で、喜多嶋はそう言いながら重箱の中身に箸を突っ込んだ。動かない男を見つめる工員たちは視線すら動かさず、ただじっと立ちすくんでいる。高瀬は喜多嶋に向かって無意味に何度も頭を下げながら、横目でその列を探る。 
「それでね、他のみなさんにもこういう事しちゃいけませんよーって教えてあげなきゃと思ってさ、市内からはるばるここまでやって来たわけ」
 口にものを入れて喋りながらぐっとビールを飲み干し、間髪入れずに手酌で注ぐ。大瓶はすぐに空になった。
「なあ! お前ら分かったよな! アンダスターン?」
 大声でそう怒鳴るなり、喜多嶋はビール瓶を物凄い早さで地面の男に投げ付けた。
 ぎゃっ、と押し潰したような悲鳴があがる。のろのろと埃まみれになりながらのたうつ男の姿に、高瀬は胃液が逆流してくるような恐怖と緊張を感じた。男を取り巻く工員たちも頬を震わせ、涙ぐんでいる者もいる。
 その時、人垣の狭間に、やっと白い顔を見つけた。コウだ。唇を引き結び、震わせている。泣いている。
 しかし、そう思った次の瞬間に、コウは堪え切れないように小さく、欠伸をした。
(あいつ……!)
 呆気に取られてそれを見ていると、突然肩を強く捕まれた。
「ひっ」
「ちょっとちょっと、そんなに怖がんないでよ傷付いちゃうなー。ねえ、都会人同士さあ、仲良くしようよお兄さん。アンタ気に入ったからさ、なんかあったら連絡してよ。もっといい働き口だって紹介してあげれるしさ」
 目の前に一枚の紙切れが差し出された。厚く上等な紙の上に『喜多嶋俊夫』の文字が黒々と横たわっている。肩書きは無い。
「あ……ありがとうございます」
「そうそう。いいねえ、礼儀正しい日本人ってやつは」
 繰り返し高瀬の肩を叩きながら、喜多嶋は上機嫌な様子でビールの栓をもう一本開けた。
「そんないい年してこんなクソみたいなドン詰まりにいるなんて、なんか事情があるんでしょ。俺でよかったら力になるよ、お兄さん」
 人のよさそうな笑顔の奥にある威圧感を全身で感じ取りながら、高瀬は年下のやくざ者に向けてひたすら頭を下げ続けた。

 喜多嶋が帰ったあと、何故か工場長から五千円を握らされた。出前の代金かと思ったが「手間代」と言われた。
「アンタさ、これからも喜多嶋さん来るときには出前頼むよ。な? あの人も普通にしてればさ、悪いようにはしてこないから」
 卑屈な笑い顔で手を握ってくる男に、一礼してその場を去った。
『大泉』に戻ると原町にもいつになく作り笑顔でねぎらわれ、今日はもう上がっていいとまで言われた。
 ジーンズの尻に入っている名刺の存在を意識しながらそのままぶらぶらとアパートに戻った。部屋に入るとすぐに紙片を放り投げ、敷きっぱなしの布団の上に寝転がって天井を見上げる。

 そろそろ潮時なのかもしれない。嫌な人間関係に巻き込まれそうになっている。面倒は嫌だ。隙を見てまたあのボロ車に乗ってどこかへ出て行こう。そう決心する。
 すると、頭の隅にふっとまたあの白い顔が浮かび上がってきた。あの残虐な場面を見ながら呑気に欠伸をしていた、コウの顔。
(――くそ)
 宙に向けて強く舌打ちをする。得体の知れない、おそらく不法就労の男など、遊び相手にするのは危険過ぎる。しかも初対面の人間にたった三千円で身体を任せようとするような人間だ。あのスクラップ工場が地元のヤクザの持ち物だとすると、あそこで働いているコウと係わり合いになるのは自分の身を危なくするだけだ。
 日が落ちるまで、高瀬はひたすらそうして閉じた物思いに耽っていた。やがてじっと寝ているのにもくたびれてくると、のろのろと起き上がって、部屋の隅に置いてある洗面器にタオルや石鹸を入れ銭湯に行く支度を始めた。

 車で二十分ほど行った所に、町営の温泉がある。バブル時代にばら撒かれた地方自治体向けの資金で作られた施設で、町民なら三百五十円で入浴出来て制限時間もなくゆっくり湯船に浸かっていられる。たまにそこで長風呂をするのが、高瀬の唯一の娯楽らしいものだ。
 しかし温泉の駐車場に車を入れた瞬間、そのままハンドルを切ってアパートに戻りたくなってしまった。見慣れたスクラップ工場のトラックが停まっていたからだ。
「ちっ……」
 一瞬本気で引き返そうかと思った。しかしもう四日も風呂に入っていない。アパートには湯の出る蛇口は一つもない。もう一度舌打ちして、なるべくトラックから離れた場所に車を停めた。
 周囲の風景と馴染まないセンスの悪いモダンな建物に入っていくと、ロビーには作業ズボンとタンクトップ姿の外国人たちが大勢いて、ビールを飲んだり備え付けのテレビを見たりして寛いでいた。その集団に意識して視線をやらないようにして、受付に金を払って脱衣所に入る。
 あの様子なら工場の連中はもう風呂から上がって帰るところなのだろう。工場長やコウに会うのは避けられそうだ。服を脱ぎ浴場に入ったが、中は予想通りあまり混んではいなかった。

 手早く髪と身体を洗い、露天風呂に入る。石造りの湯船には先客はいなかった。
「はあ……」
 暗くなった空を見上げると、そこだけ白く切り取ったようにくっきりした半月が昇っていた。
 荒んだ土地でも、風景だけは美しい。夜はちゃんと月が見え、星も瞬く。さらさらと気持ちのいい風が湯から出ている火照った身体を冷まし、その心地よさに高瀬は長い溜息を吐いた。
「タカセ」
「うわっ」
 しかし、突然たどたどしい声に名前を呼ばれ、リラックスした気分は一気に吹き飛んだ。
「ふふふ。またあった」
 一番会いたくなかった人間が、一番見たくなかった姿でそこにいた。
「ひるま、うちきたね。私、いたのみえたか?」
 コウはいやになれなれしい口調で隣に寄ってきた。当然だが一糸纏わぬ全裸だ。高瀬は顔を横に背けた。
「ねえ、きこえてますかー」
 しかしいきなり横顔に湯を掛けられ、思わず振り向いてしまう。
「何すんだよ!」
「ひるま私、て、ふったのにタカセきづかなかったね」
 コウは高瀬の言葉を無視するように、細い指をひらひらと振る。
「……あんな所で手なんか振るなよ。どうかしてんじゃないの」
「どうして?」
 コウは身体を動かし湯から上半身を少し覗かせた。顔と同じく赤みが差したそれは、初めて人間らしい生々しい肌色を見せていた。もう一度目を逸らそうとしたが、何故か、出来ない。高瀬は湯船の中で気付かれないように、ゆっくりと膝を立てた。
「アクビしてたろ、あの時。よくあんな状況で呑気にしてられるな」
「ねむかったよ。ねてないからね」
 つ、とコウの指先が動き、くっきりと浮き出た鎖骨の下を指した。そこにはあからさまな鬱血の小さな痕が、色濃く付いていた。
「――ロクな死に方しないよ、お前」
「さあねー」
 コウは妙な節回しをつけて、歌うようなふざけた口調で言った。
 今日倒れていた男がどうなったか一瞬気になったが、余計な事に首を突っ込むことはないと思い直し、濡れてぺたりとしているコウの髪を見る。
 するとくすくすと声を立てながら、コウは高瀬の肩にしなだれかかってきた。
「やめろ。そういう趣味は無いって言ってんだろ」
 慌てて押しのけたが、構わずさらにぺったりと身体をくっつけられた。柔らかさの無い、しかし滑らかな肌が腕に触れ、湯の中にいるのにぞくりとした感覚が背中を上る。
「タカセ、うそつきだ。私ちゃんとわかるよ」
 人を小馬鹿にしたような、見透かしたような目つきと口調でコウが囁く。
「じゃあ、お前みたいなのは好みじゃないって言えば通じるか」
 吐き捨てるようにそう言うと、コウは思いのほか大人しくすぐに身を引いた。
「どういうの、すき?」
 囁くような声が耳を打った。
 コウの目を見る。笑いは消えていて、細い筆で描いたような睫毛に水滴が付いている。それが細かく揺れて、光沢のある化粧のように黒い瞳を縁取っている。
「――マッチョで、日に焼けて背が高くて、目が青くて金髪の男だ」
 つとめて低くした声でそう言うと、コウは真剣な顔で二度、小さく頷き、突然大きな水音を立て立ち上がった。
 濡れた全裸が、目の前に晒される。
 痩せ細った身体は、うっすらと筋肉の線が浮かび上がっている。体毛は薄く、下半身の翳りだけが目立って黒い。胸の二箇所と先刻指差した鎖骨の下に、隠微な痕が赤く色付いている。
「タカセ、すけべ」
 唖然とそれを見上げる高瀬の顔に、笑い声と一緒に再び叩き付けるように湯が掛けられた。
「ちょっ……!」
 もろにそれを被ってしまい慌てて顔を覆った。塩分のある湯が目に入って激しく沁みる。
「痛いだろバカ野郎!」
 目を何度も擦りやっと見開くと、そこにはもうコウの姿は無かった。

(第三話へ続く)https://note.mu/tori7810/n/nc2cbc598e043

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?