峠の中華(3)


※第一話 https://note.mu/tori7810/n/n6b1873657189
※第二話 https://note.mu/tori7810/n/nc1ea7e23e01f

 デッキブラシでコンクリートのたたきを擦りながら、受話器を片手にはしゃぐ原町の不愉快な声をやり過ごす。
 いや、原町の声が不愉快なのではない。まだここを離れていない自分に腹が立っているのだ。どうして昨夜のうちに、この町を離れなかったのか。長く居てもいいことなんて起こらないのは分かりきっているのに。
「はい、はい、二十一人ね。分かりました。じゃあ今夜ね。毎度どうも」
 ちん、とピンク電話の受話器が置かれた。今夜、来るのだ。無意識にブラシを持つ手に力が入った。
 夜の九時を回ったあたりに、ここで働き始めて、初めて皿を割ってしまった。
 ブリキの塵取りで粉々になった陶器を片付けている間に、駐車場に大型車が入る音が聞こえた。途端に気分が落ち着かなくなる。
「カヨちゃん、きたよ」
 工場長のいつもの挨拶と一緒に、大勢の笑い声や話し声がどっと店の中に入ってきた。
 高瀬は慌てて掃除を適当に済ませ、厨房からビールとコップを出した。もうさっそく原町とふざけあっている工場長の前にそれを置いてから、工員たちのための皿と茶碗をテーブルに出す。
 横目で店の中を見渡したが、飯を食べる男たちの中に、コウの姿は無いようだった。少しほっとして、それから何故か悔しくなる。
 代わりに工場長の息子らしい金髪頭が見え隠れしている。この辺りで二十歳過ぎても地元に残っている男は少ない。仕事が無いので、ヤクザになるか日がなパチンコでもやるしか道が無いらしい。
 工員たちは、いつものように皆物凄い勢いで食事をしながら賑やかにテレビを見ている。しかし余った椅子に腰掛けて茶を啜っていると、金髪頭が一人でテレビにそっぽを向いているのが目に入った。
「……!」
 コウだ。工場長の息子だと思っていた金色の頭の男は、コウだった。
 高瀬は勢いよく椅子から立ち上がり、隅の席に座っていたコウの手を掴んだ。
「! なに!」
 小さく叫んで抵抗するのを無視して、そのまま腕を引っ張り店の外に出る。誰かに何か呼びかけられた気がしたが、無視した。
「タカセ、いたい!」
「何なんだよそれは!」
 駐車場の隅まで来てから細い手首を離した。コウは不思議そうな顔をしていたが、黙ってその頭を指差すと、ぱっと笑顔になった。
「これ? にあうか?」
 得意気な表情でぴんと背筋を伸ばし、指先で髪を梳いてみせる。高瀬は言葉に詰まって、その顔を見つめた。
 品のない安っぽいぱさぱさした金髪が、小さな頭の上で鳥の毛のように揺れている。それは典型的な東洋人の容姿をしているコウには哀れなくらい、似合っていなかった。
「これでひとつ、タカセ私のことすきになったね」
 屈託無い笑顔で言われ、高瀬は胸の中に正体の分からない苛立ちが満ちてくるのを感じた。
「ならねえよ。何でそんなに俺に構うんだ」
 自分で聞いてもぞっとするほど怒りに満ちた声で、高瀬は吐き捨てるように言った。
「タカセ、これ、すきだろう」
 だが気圧される風もなくあっけらかんとそう言って、コウはまた髪を指で弄る。
「俺はお前に金なんか出さない。他を当たれ」
「タカセ、カネないか」
「金の問題じゃねえよ」
「なら、せんえんでいいよ」
「人を馬鹿にするんじゃねえ!」
 ほとんど無意識に手が出ていた。どん、と突き飛ばされたコウが大きくよろけ、砂利の上に尻餅をつく。
「あ……」
 一瞬で血の気が引いた。
「……タカセ、おこった」
 掠れた声でコウが独り言のように呟いた。立ち上がりもせず、瞳を大きく見開いてじっとしている。
「いや、すまん……その」
「私のこと、きらいか」
 黒目がちの瞳がゆらゆら揺れている。両腕をだらりと垂らして立ちすくんだまま、動かない。
「そうじゃない。その……」
 取り繕うように、高瀬は膝を曲げ視線をコウと合わせた。瞳の縁に、みるみる涙が溜まっていく。
「タカセきにいるとおもって、かみそめたよ」
「だからあれは、冗談で」
 そう言うと、コウは口の中でごにょごにょと何か呟いて袖で涙を拭った。
「私、だまされたか」
「いや、騙そうと思ったわけじゃないが……すまん。ターンカラー買ってやるから」
「たん……?」
「髪の色戻すやつだよ。お前、仕事休みとかあるのか」
「あるよ……あめのひ、にちようび」
「じゃあ次の日曜に俺の部屋に来い」
 そう言うとコウは一瞬ぽかんと口を開け、すぐに意味ありげな笑い顔になって、あー、と変な声を出した。
「馬鹿、変な期待するな。髪染めるだけだ」
「んん? ざんねん」
 さっきまで涙ぐんでいたのが嘘のような笑顔で、コウはまた落ち着きなく身体を揺らした。
 高瀬がアパートの場所を教えると、頷きながら何度もそれを繰り返した。本当に何回も、呪文のように。
 コウに食堂の中に戻るように言い、高瀬は駐車場で一人煙草に火を点けた。
 混乱していた。幽霊のように見えたかと思えば、いきいきと濡れた眼で男を誘う。半殺しになっている同僚の前で欠伸をするほど冷たい無感情な人間だと思えば、こんな些細な事で半泣きになってしまう。
 明るい食堂の中からどっと笑い声が漏れ聞こえた。その輪の中にコウは入っていないだろう。きっとまた無表情でテレビに背を向け、じっとしているに違いない。そう考えると、何故かほっとした気分になった。

 土曜の夕方、久々に車を出して町まで出かけた。町で唯一の大型スーパーは結構な人出で、高瀬は少し酔った。ほんの一年前まで都会の人混みに揉まれて暮らしていたのに。常に人に囲まれ人を使って働くのが当然の生活をしていたのに。
 事件の後、東京での仕事を手配してくれようとした知り合いは何人もいた。しかし事の顛末を全て知っている噂好きの業界人の間で働く気力は、残っていなかった。
 誰もが、タレントを好きなように食いちらかし、気に入らないスタッフに無理難題をふっかけて楽しんでいた高瀬の転落を、ほくそ笑みながら見ているような気になったのだ。もちろんよりひどい事件を起こしてなお業界に居座っている人間は何人もいたが、高瀬はそうはなれなかった。この年で、自分の弱さに初めて気付いてしまった。
 アパートの畳の上にヘアカラーを置いて、高瀬は日曜日を迎えた。
髪を染めてやるだけ、絶対にそれ以外の事はしない。誘惑されても無視をする。何度も頭の中で繰り返した。
 正午を少し回ったころ、ノックも無しにドアが突然開けられた。
「きたよ!」
 寝転がっていた布団から慌てて頭を上げると灰色のTシャツにいつもの作業ズボンを穿いたコウが玄関先に立っていた。頭には薄汚れたタオルが巻いてあり、金髪は見えなくなっている。
「ノックくらいしろよ」
 溜息を吐いてから手招きすると、コウは靴を蹴り飛ばすように脱いで部屋に入ってきた。
「いいへやだ」
 座りもせずに首をぐるぐると回して忙しなく部屋の中を見る。
「ひとりですんでるか」
 高瀬が頷くと、ぜいたくだと大声を上げた。
「そと、クルマ、あれうごくやつ? あれもタカセの?」
「そうだよ」
「タカセ、カネないのもウソか」
「いいから座れ。髪染めるぞ」
 そう促すとコウはすぐにしゃがみこみ、高瀬の着ている寝巻き兼用のよれたシャツをしきりに引っ張った。
「なにする? どうする?」
「まず上脱げ。服が汚れるから」
 コウは素直に頷いて勢いよくTシャツを脱いだ。一緒に頭のタオルも取れて、癖の付いた金髪が顔を出す。後ろの方や襟足の手の届きにくい部分まできれいに脱色されているので、自分一人でやったのではないのだろう。同僚にでも手伝ってもらったのか。
 そこまで考えた時、ふと工場長の息子の顔が浮かんだ。最初にコウと話した公園には彼がいた。今のコウと同じ、白に近いようなはっきりした金髪の髪をしていて――
「こわいかお、してますね」
 はっとして顔を上げると、コウの目が驚くほど近くにあった。
「いちいちくっつくな!」
「どうして? このまえ、キライじゃないいったよ」
「しつこくすると嫌いになるぞ」
 その一言で、コウは座ったまま器用にぱっと跳び退った。
「OK、しつこくしない。リョウカイしました」
 真面目くさった顔で両手を挙げて降参のポーズを取る。
「――よし、そしたらこれ、首に巻け」
 ヘアカラーの箱を開けビニールのケープを取り出し手渡すと、コウは言われた通りにそれを手早く巻き付けた。上半身裸の若い男が白いケープを纏っている姿はなんだか滑稽だ。
「じゃあ、こっちに背中向けて」
 そう言うとコウは一瞬、ぎゅっと口を引き結んで困ったような顔をしたが、もう一度背中を向けろと手で仕草して見せると、大人しく後ろ向きに座りなおした。
「……何だ、これ」
 目の前に曝された細い背中に、高瀬は絶句した。
 背骨が浮き出た狭いそこには、二十センチはある細長いケロイド状のものがへばりついていた。
「あー、カンケーない」
 コウはあっさりした声でそう言ったが、その赤黒いグロテスクな傷痕は背中に溝を作っているほど深い。
「や、火傷……? い、痛くないのか」
「むかしだから。ノー・プロブレム」
 下手な発音の英語で、ふざけたように言う。確かに古い傷のようだが、こんな生々しい大怪我を間近に見るのは初めてで、高瀬は唾液を飲み込んだ。
「タカセ」
 ささやくような声と同時に、突然ぐ、と手を握られた。
「え?」
「こわくないよ」
 何を言われているか分からずにいると、驚くほど強い力で腕を引かれ、高瀬の手はコウの傷跡にべたりと押し当てられた。
「!」
それは、明らかに普通の皮膚とは違う、妙にすべすべした硬い感触がした。背筋が粟立つ。しかし、コウの手を振り払うことが出来なかった。
「ね。カンケーない」
 すぐに手は離されたが、高瀬の指は強張って震えたままだった。長く細い首を少し傾げながらコウは、つぎどうする、と明るく言った。

「ああ……すごい」
 アパートの外にある流し台で、半分割れた鏡を覗き込みながらコウが呟いた。
 真っ黒に濡れた髪はやはり黒い睫毛や眉や瞳にしっくり馴染む。唇を尖らせ変に澄ました顔をしながら、コウは指先で何度もぱらぱらと髪を梳いた。
「タカセ」
「ん?」
「ほんとこれでいいか。こっちのほうがいいか」
 鏡の中で視線を合わせてきて、にやにやと笑いながらコウが言った。
「元々の髪の色だろ」
「め、あおくする? せ、のばすか」
「悪かったよ……あれは嘘だから。全部嘘」
「じゃあ、私このままでいいか」
 コウはふいに体ごと振り向き、上目遣いで微笑んだ。
「このまま、これで、いい?」
 その言葉を聞いた瞬間、唐突に高瀬の中に抗いがたい強い衝動が沸いてきた。
 細い肩を、強く掴む。
「なに?」
 人を小馬鹿にしたような、でもどこか媚びているような笑みを浮かべた眼でコウは高瀬を見上げている。自分が何をしようとしているのか分からないまま、肩を掴む手に力を込め、その身体を引き寄せようとした。
「……いやらしい」
 しかし次の瞬間、どん、と思わぬほど強い力で胸を突かれた。
「いやらしい、タカセ。しないって、いったよ」
 くくく、と喉の奥で笑いながら、コウはさっと高瀬の手を払うと砂利を蹴って走り出した。
「お、おい」
「うーそーつーき! ばいばい!」
 道路の向こうで立ち止まり、大きく両手を振り回しながらコウは笑ってそう叫んだ。そして驚くような素早さで再び走り出し、その姿はあっという間に高瀬の視界から消えていった。

 小さな羽虫が群がる自販機の光をぼんやり眺めながら、高瀬は火の付いていない煙草を前歯で噛んだ。
 あれから二週間。コウの姿は一度も見ていない。
 スクラップ工場の連中は今までだいたい十日に一度くらいは店に来ていたはずだが、今週は工場長からの電話すら無かった。原町もその事に関して何も言わず、高瀬には何の情報も入らない。高瀬は苛立っていた。苛立っている自分に、苛立っていた。
『じゃあ、私このままでいいか』
 とても静かな、怯えたようにさえ聞こえたコウの言葉を反芻する。その時のコウの表情を、瞳のゆらぎを、何度も繰り返し思い浮かべてしまう。あの男の何が、自分の心をこんなにざわめかせるのか。確かに小奇麗ではあるけれど、今まで付き合ってきたどの女とも男とも、何にも似ていないのに。娯楽の無さ過ぎるこの「どんづまりの暮らし」のせいなのか、もしくは……
 答えの無い問いをぐるぐると考えながら、煙草に火をつけ腕時計を見た。仕事を終えてからすぐこの公園に来て、もう一時間は経っている。
 足を組み替えると、ポケットの中のものががさがさと音を立てた。右のポケットの中には五枚の千円札が、事務用便箋に包まれて入っている。これを今日用意したことの意味を、高瀬は深く考えたくなかった。
 金の感触を布越しに何度も確かめながら、ベンチの上で所在なく何度も足を組み替え煙草をせわしなくふかし、さらに三十分以上を過ごした。ここに居てもコウに会える確証など少しも無い。そもそも、本気で会いたいのかどうかも分からない。会ってどうするというのだ。抱くのか。言われた額より二千円多い金を渡して。勃ちもしないのに。
 しかし、いい加減帰ろうと吸いさしの煙草を投げ捨てた瞬間、道路の方からかすかに人の足音らしきものが聞こえてきた。
 はっとして顔を上げ公園の入り口を見ると、青白い街灯に照らされて、小さな身体がゆっくりと視界に入ってきた。
「コウ……」
 小声で、思わず名前を呼んでいた。
 じゃりっ、と強く砂を踏んで、コウが立ち止まった。ぽかんと口を開け、驚いたような表情でこっちを見ている。
 ベンチから立ち上がり、ためらいながら高瀬はじっとその場から動かないコウに近付いた。
「タカセ」
「おう」
 間の抜けたやり取りだと思いながら、鼓動が少し早くなった。ポケットの中の五千円の存在が急に大きく感じる。
 コウはじっとしたまま口を開かない。その表情は硬く、冷たい。
「タカセ」
 まったく感情の篭ってない声でもう一度呼ばれ、高瀬は身じろぎした。
「にげて」
「え?」
 聞き返すと、コウは突然おそろしく険しい表情になった。
「にげて!」
 鋭い小声と一緒に、公園の外から別の足音が聞こえてきた。一人のものではない。目を見開いてコウを見ると、その指が、奥の暗闇を指していた。
「にげて! はやく!」
 一瞬の後、高瀬は無言で走りだした。足がもつれ、緊張で口の中が干上がった。公園の奥は細い舗装されていない山道に繋がっていた。何度も転びそうになりながら、無我夢中でその真っ暗な道を月明かりを頼りに、ひたすら走り続けた。

(続く)

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