潮騒のドッペルゲンガー



 自分と同じ顔をした人間を目撃すると、数日後に死んでしまうという伝説がある。子供の頃に何かで読んで、それからずっと覚えていた。

「びっくりしたわ、妹さん。遺影とそっくりなんだもん」
 玄関で私の頭に塩を振りながら、母が言った。
「だね。驚いた」
「え、あんた今まで会ったことなかったの」
「学年違うし。ていうか矢崎さんともそんなに仲良くなかったし」
「そういうこと言うもんじゃないよ」
 何がそういうことなんだろう。薄紫の紙袋を靴箱の上に置き、私はパンプスを脱いで足の指を動かした。

 高校時代の同級生が死んだ。三年のとき同じクラスだった矢崎晴子。喋ったこと、ほとんどない。ただ顔はよく覚えている。
 彼女はちょっと不思議な顔をしていた。一重で切れ長の目に小さい鼻。ぺたっとしたストレートの髪。顔の上半分は地味だけど、唇がいきなりぽってりと赤く奇妙に目立っていて、アンバランスなルックスだった。でも、からかわれたりいじめられたりもしない、そういうポジションの子。学年でも特におとなしい子のグループにいた彼女と、部活組の私は一年間ほとんど接点もなく過ごした。

「あんた、いつまでこっちにいるの」
 茶の間に入ると、なぜか立ったままテレビを見ている母が言った。
「日曜の昼には戻るよ」
「日曜って、明日じゃない」
「会社あるし」
「せわしないね」
 それで会話は終わり、私は母と一緒に立ったまましばらくテレビを見つめた。

 八年ぶりの実家は、怖いくらい何も変わっていなかった。潮風に負けずに育った庭木が少し大きくなっていたくらいだ。

 喪服姿で立ったまま母親とテレビを見ているのは辛い。特に理由もなく八年も帰らなかったことについて、何も言ってこないのがしんどい。
「散歩行ってくる」
「着替えていきなさい」
「あー」
 私は考えるふりをしてから、ジャケットを脱いで座椅子の背に放り投げた。パンツスーツだし、下はTシャツだし、これで喪服っぽさはなくなる。玄関に行き靴箱を開けると、古いナイキのスニーカーが入っていた。

 外は夕焼けに染まっていた。Tシャツ一枚は少し肌寒い。それでも私の足は海に向いた。

 矢崎晴子はどうして死んだのだろう。
 死因の話は不思議なくらい出なかった。他の元同級生たちも、誰も矢崎晴子の話をしなかった。遺影はモノクロだった。それでもあの唇は赤く見えた。棺の前に座っている矢崎晴子と同じ顔をした妹の唇も、また赤かった。

 八年前はコンビニだった携帯ショップの角を曲がって、国道を渡るとすぐ海に出る。松の防砂林はどういうわけか枯れ木だらけになっていて、アスファルトには白い砂粒が吹き寄せられていた。海水浴でもサーフィンの季節でもない今、砂浜は静かだ。海を見るのも八年ぶりだった。

 波の音の向こうに沈む夕日が見える。赤い。私はずっと矢崎晴子の唇のことばかり考えていた。一、二度くらいは何か話をした気がする。だけどその内容が少しも思い出せない。

「あの」

 振り返ると、矢崎晴子が立っていた。  
 私は声も出せず硬直した。違う。これは矢崎晴子ではない。

「さきほどは、ありがとうございました。矢崎夕子といいます」

 妹だ。矢崎晴子の妹。
 私はあいまいな会釈をし、矢崎夕子の顔を見た。記憶の中の、そして遺影の中の矢崎晴子とまるで同じ顔。

「お宅にうかがったら、たぶんここだとお母様が仰ったので」
 少しだけ眉根を寄せて、困ったような顔で矢崎夕子は私を見ている。
「あの、何か……」
 「ドッペルゲンガーって知ってます?」

 突然うわずった大声でそう言うと、矢崎夕子は砂を踏んで私に近付いてきた。

「自分と同じ姿をした人間を見つけると、数日後に死んでしまうっていう話。知りませんか」
「……聞いたことは、あります」
 細い目が、私を強く睨む。

「お姉ちゃんと私、似てますよね」
 頷く。
「私、前はこんなにそっくりじゃなかったんです。だんだん、だんだん似てきて。ある朝起きて、歯磨きしながら鏡を見て、あって思ったんです。お姉ちゃんが映ってた。その朝ちょうど、お姉ちゃんと完全に同じ顔になっちゃったんです。私びっくりして、歯ブラシくわえたままぼーっとしてたんですけど。そこにお姉ちゃんが入ってきて」

 ひと息でそう言ってから、矢崎夕子は赤い唇からはーっと息を吐いた。

「私を見たから、お姉ちゃん死んじゃったんだと思います」

 私は何も言えず、黙って赤い唇を見つめた。

「お姉ちゃんと同じ顔になったら、頭の中までお姉ちゃんになった気がするんです。だからさっきあなたを見て、分かったんです」

 もう一歩、ほとんど胸と胸がくっつきそうなくらい、矢崎夕子は私に近付いた。

「あなたが好きです」

 真珠のネックレスをした柔らかい胸が、私の胸に押し付けられる。

「高校のときからずっと好きでした。あのとき勇気出してたらって。どうしてずっと帰ってこなかったのかって。同窓会、二回もあったのにって、楽しみにしてたのにって、次に会ったらちゃんと言わなきゃって、あのときのこと聞いてみなきゃって、好きでずっと会いたくて、でも会ったらすごく辛いって、忘れられてるかもしれないって、でも会いたかったって、いま、私、お姉ちゃんがそう思ってたのが分かるんです」

 切れ長の目、小さい鼻、ぶるぶる震える赤い唇。
 その唇に、私はいっぺん触ってみたいなと思っていたのを思い出した。

「お姉ちゃん。お姉ちゃんどうするの。どうしたらいいの」

 矢崎夕子が泣きだした。俯いた顔が、自然と私の胸に埋まる。
 そのなで肩を、私は抱きしめた。あのとき。そんなときがあっただろうか。高校時代に矢崎晴子と交わしたはずの会話を必死に思い出そうとしている。

「お姉ちゃん。私どうすればいいの」

 そのとき、波打ち際に人がいるのに気付いた。こっちをじっと見ている。黒い服を着ていて、半袖のTシャツから白い腕が伸びている。

「お姉ちゃん」

 その人はゆっくり、ゆっくりこちらに近づいてくる。スニーカーで砂を踏んで歩いてくる。腕の中の矢崎夕子はもう泣いていなかった。太陽が沈みきる前の一瞬の明るさに、私の顔が浮かび上がった。

(終)

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