死ぬのを待ってる志木の家(第一回)

「もう、本っ当に、何もしたくない」
 池袋北口の珈琲専門館・伯爵で水を飲みながら、鯵村マユミはその晩二十一回目の何もしたくない宣言を発した。向かいに座っているのはさっき近くのバーで初めて会った若い女だ。名前も素性もまだ知らない。
 女は深夜二時だというのにドリアセットをもぐもぐ食べながら、鯵村の宣言におごそかに頷いた。これも二十一回目。

 鯵村は今日付けで派遣の契約が継続されず無職になった。ついでに一緒に暮らしていた男に十条のアパートから追い出され、バカなのでヤケになり、最後の八千円を握り池袋に飲みに来てしまった。『大都会』あたりで安くあげればいいものを、「こんな夜には誰にも邪魔されず音に浸かりたい……」と洋楽を聞き始めた高校生のようなことをぬかし一人でジャズバーに入った。そこも安い店ではあったが、やろうと思えば八千円くらい簡単に溶かせる。六杯目のメイヤーズを頼んだとき、隣の女に声を掛けられた。

「私も何もしたくないですねえ。何かしなきゃいけないっていうのは――」
 女はもう一口ドリアを食った。
「地獄です」
「地獄」
 女は鯵村の目を見てゆっくり頷いた。
「やらなきゃいけないことがあるというのは、地獄です。何もしたくないというあなたの気持ち、よくわかりますよ鯵村さん」
 鯵村は酔いに霞んだ目で女を見た。大学生っぽい雰囲気で、クリーム色のサマーカーディガンとダンガリーのワンピースを着ている。パーマのかかっていない黒髪は長く真ん中分けで、どことなく狐を思わせる風貌で目がずっと笑っている。女はしゃべり続ける。
「鯵村さん。実はあなたのような人を探していたんです。私と同じくらい何もしたくないという強い意志を持っている人を」
 女はスプーンを置くと、ぐいと身を乗り出してきた。
「理想の生活をしましょう。やらなきゃいけないことのない生活、したくないことはしない、したいことだけをする生活です」
「そんなことできんのお?」
「できます。私とあなたなら」
 女はベージュと白のフレンチネイルをした右手を差し出してきた。鯵村は何も考えずそれを握った。その瞬間、鯵村の視界はブラックアウトした。


 ひどい頭痛とともに目を覚ますと、鯵村は段ボール箱の塔に見下ろされていた。
「んあ」
 酒を飲み過ぎた次の日特有のねばつく口をこじ開けて、鯵村は不明瞭な声をあげた。暑くもなく寒くもない、湿っぽくも乾燥してもいない空気が心地よく二日酔いの身体を包んでいる。
「お目覚めですか」
 びくっとして振り返ると、そこには昨夜の若い女が立っていた。ゆったりしたボーダーのトップスとミモレ寸のネイビーのセミフレアスカートにレモン色のレースソックスを履いている。長い髪は無造作にアップにしてあった。
「ええと、ええと……」
 女の顔を見ながら、鯵村は無意識に自分のポケットをさぐっていた。財布。ある。服。着ている。
「ご気分どうです?」
 女はうすく微笑みながら鯵村を見つめている。その周りにもいくつものダンボールの塔があった。薄暗くやたらと広いフローリングのワンルームだ。鯵村は床に直接しいた布団の上に寝かされていた。
「ここ、どこ……?」
「その前に、この部屋の使い方を説明しますね」
 女は取り囲むダンボール塔の一つをするっと撫でた。
「この部屋の箱はほとんど水と食料です。生活雑貨類は隣の部屋に積んであります。二人分でだいたい半年間は過ごせる計算です。足りないものは購入します。私の手持ちは現金で百万円。今日一日で使ってしまってもいいし、切り崩しながらゆっくり使ってもいい。使い方は鯵村さんにお任せします」
 アナウンサーのようなよどみない口調でそうしゃべると、女は何かを促すような顔で鯵村を見た。『何か言え』という顔だ。
「ど」
 ねばっ、と口がふたたびくっついた。
「どういうことなの……」
「何もしない生活をするんです。私とここで」
「どういうことなの?!」
「昨夜共に誓ったじゃありませんか」
 女は片手を差し出した。ネイルはレモン色とパールピンクのグラデーションになっている。
「理想の生活をしましょう。やらなきゃいけないことのない生活、したくないことはしない、したいことだけをする生活です」
 鯵村はふらふらとその手を握りそうになった。寸前でびっくりしながら自分の手をひっこめる。
「いやいやいや、知らない、そんなむちゃくちゃな話。だいたいあんた誰って話だし、私……帰らないと。家、帰る」
「帰る家があるんですか」
 鯵村は口を開けたまま黙った。無い。
「鯵村さんはおいくつでしたっけ」
「にじゅうきゅう……」
「じゃあいいじゃありませんか。大人ですし、仕事も住む場所無いんですよね」
「無いけど。大人だけど。でもさあ」
「なんにもしなくていいんですよ。ここで、好きなだけだらけられるんです」
 好きなだけだらけられる。その甘美な言葉の響きは鯵村の鼓膜を震わせ脳にだらしない花畑色のもやをかけた。なんにもしなくていい。なんにも……。「ええと……なんていうの、名前」
「エリザベスです」
「えっ。偽名」
「本名です。ベスという愛称は嫌いなので、エリザベスと呼んでください」
 エリザベスは口元だけで笑って首をかしげるような会釈をするような曖昧な動きをした。
「ここは……どこなの」
 エリザベスは窓に向かうと、しゃっと白いカーテンを開けた。すこんと抜けた青空と、住宅が密集している町並みのパノラマが眼下に広がる。かなり、高い場所にある部屋のようだった。

「ここは埼玉県志木市。今から死ぬまで何もせずに過ごす、我々の家です」

●鯵村・エリザベスの現在の所持金 100万3千128円

(続く)

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

※この小説は読者の皆様の投げ銭により、二人の所持金が増減していく読者参加型投げ銭小説です。売上があっても無くてもお話は進みます。ですので読むだけでも企画に参加できますし、投げ銭を頂ければそのお金を二人が即座に使います。月に1回更新予定で、毎月10日締め日の売上で次のストーリーを決めていきます。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?