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「役に立たないから古文漢文の授業は不要」という主張は無理がある

SNSでは定期的に、特定の科目を授業で教える必要があるかどうかの議論が盛り上がる。
もちろん私も興味を持って、その話題に関する投稿を見てみるが、どれもなんだかぱっとしない。

そこで、この問題について私も考えてみた。


”役に立つ”とはどういう意味?

この話題に対して、いまいち納得できる答えが出ない理由はいくつかあるだろうが、私は役に立つという言葉の定義が定まっていないために答えが出ない、答えが出せないのだと考えている。

”役に立つ”という言葉の定義

SNS上の議論ではしばしばみられることだが、『役に立つ』という言葉の定義が定まっていない。
『役に立つ』という言葉は、何かが有用であったり利益をもたらす場合に用いられる言葉である。
だが、人によって何が有用なのか、何が利益なのかが異なっている。

例えば、古文漢文を知っていることのメリットの1つとして次のような例が挙げられていた。
「古文漢文を知らないと、『春は揚げ物』の面白さが分からない」
この例に対して賛同する意見もあるが、逆に
「その程度のメリットしか挙げられないのなら不要」
という意見もある。

この場合、古文漢文と言う教養の元で成り立つジョークが好きな人、つまりエンタメとしての面白さは役に立っていると言えると考えている人は賛成派にまわり、そうでない人は「しょーもな」の一言で切り捨てる。

このように、何が役に立つかと言うのは人によって異なる。
だから学問の必要性を役に立つor役に立たないという点で考えると議論がまとまらないのだ。

「役に立たない⇒授業は不要」は成り立たない

教育の目的は役に立つことを教えることだけではない。
本当に役に立つことだけを教えるのならば、数学、理科、英語、社会、さらには現代文でさえも、教える必要のない単元が多く存在する。

仮に金にならないようなことであっても、教育する意義は存在するのだ。
ちなみに古文漢文だと以下のような意義がある。
・現代の言葉の知識・理解・技術を高める。
・漢文を学ぶことで、東洋の文化についての理解を深める。
・国語を正しく学ぶことで、漢字・漢語の利点や濫用することの弊害を理解する。

以上のような教育する意義を無視して、「役に立たないから授業は不要」と主張するのは無理がある。

まとめ
「役に立たないから古文漢文の授業は不要」という主張は無理がある

役に立つという概念は人によって異なる。
ある人は仕事や生活に役に立つことを求めているが、別の人は知的好奇心を満たせれば役に立っているという人もいる。

この主張は、上記のように役に立つという概念の定義が不足している。だから様々な立場の人から反感を買うし、説得力に欠けるのだ。

また、この主張は授業が不要と述べているが、教育の目的は役に立つことを教えることだけではないことを見落としている。

そういった点で、「役に立たないから古文漢文の授業は不要」という主張は無理がある。

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