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中国の王朝(殷・周・秦・漢・隋・唐・宋・元・明・清・中華民国・中華人民共和国)と日本

中国を統治した王朝、政府を概観すると次のようにまとめられます。

夏 :最古の王朝だとされています。

殷  :殷墟(いんきょ)、青銅器、甲骨文字を残しました。

周 :前1100頃~前256 封建制度で中国北部を統治しました。

・春秋時代 前770~前403 周が衰え、諸侯が争った時代です。
・戦国時代 前403~前221 七国(韓・魏・趙・斉・秦・楚・燕)が争った時代です。

秦 :前221~前206 始皇帝が中国を統一しました。貨幣や文字を統一し、万里の長城を築きました。

漢(前漢) :前202~後8 劉邦が項羽を倒して建国しました。武帝のときに儒教を国教としました。

新 :後8~23 王莽が前漢を乗っ取った王朝です。

漢(後漢) :25~220 光武帝が漢王朝を再興しました。

・三国時代 :220~280 曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀が争った時代です。
・・魏 :220~265 蜀を滅ぼしますが、司馬炎に倒されます。
・・蜀 :221~263 魏に滅ぼされます。
・・呉 :222~280 司馬炎の晋に滅ぼされます。 

晋(西晋) :265~316 魏の重臣、司馬炎が建てた国です。

・東晋 :317~420 晋の滅亡後、皇族が再興した国です。
・五胡十六国 :304~439 異民族が華北に侵入し、興亡をくりかえしました。
・南北朝時代 :439~589 華北の王朝と東晋の後継王朝が南北に分かれて統治した時代です。

隋 :581~619 楊堅が再び中国を統一しました。律令制度を始めました。

唐 :618~907 李淵・李世民親子が建てた王朝です。均田制や租庸調を採用しました。

・五代十国 :907~960 唐が滅亡した後、宋が再統一するまでの間、華北で五王朝、地方で十の国が興亡しました。

宋(北宋) :960~1127 趙匡胤が再び統一王朝を建てました。1127年、南に逃れて南宋となります。

・南宋 :1127~1279 元に滅ぼされます。
・遼 :916~1125 契丹族の耶律阿保機が建国、北宋を圧迫し、中国北部を支配しました。
・金 :1115~1234 北宋を滅ぼして中国北部を支配した王朝です。

元 :1271~1368 モンゴル帝国のフビライが南宋を倒して中国全土を支配しました。

明 :1368~1644 漢民族の朱元璋が元を滅ぼし、建国しました。

清 :1616~1912 満州の女真族のヌルハチが建国、明の滅亡後、中国を統治しました。

中華民国 :1912~1949 辛亥革命で清を倒して成立しました。中国共産党によって台湾に追われました。

中華人民共和国 :1949~ 中国共産党が、1949年に国民党との内戦に勝利した後、現代まで中国を統治しています。

国名の暗記方法

私は「語呂合わせ」よりは「お経のように唱える」ほうが覚えやすいし手っとり早いと思っているので、次のように暗記しました。

殷・周・秦・漢・隋・唐・宋、いん・しゅう・しん・かん・ずい・とう・そう(このあたりで息が切れます)

元・明・清、げん・みん・しん(ここで一呼吸)

中華民国・中華人民共和国、ちゅうかみんこく・ちゅうかじんみんきょうわこく

童謡『うさぎとかめ』の歌詞に合わせて覚える方法もあるようです。

いん・しゅう・しん・かん・さんごく・しん…もしもしかめよかめさんよ
なんぼくちょう・ずい・とう・ごだい…せかいのなかでおまえほど
そう・げん・みん・しん・ちゅうかみんこく…あゆみののろいものはない
ちゅうかじんみんきょうわこく…どうしてそんなにのろいのか

三国時代、南北朝、五代が入っているので便利といえば便利です。

中国の王朝と日本との関係

小学生・中学生の場合、日本の歴史との関連で中国の王朝名を覚えると知識の整理ができて得点力がアップします。

漢(前漢) :前202~後8

『漢書地理志』に、わが国について「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となる」と書かれています。

漢(後漢) :25~220

『後漢書東夷伝』に、倭の奴の国王の使いが57年に後漢に朝貢し、光武帝より金印を授けられたという記述があります。
1784年に福岡県の志賀島から出土した金印(「漢委奴国王」と刻まれています)がその金印だとされています。

三国時代 :220~280

『魏志倭人伝(『三国志』魏書東夷伝倭人条)』に、倭に邪馬台国を中心とした国家連合が存在すること、邪馬台国の女王卑弥呼が占いによって統治していること、倭人の様子や風俗などが書かれています。

隋 :581~619

『日本書紀』に、大和朝廷が推古天皇の15年に小野妹子を、後に犬上御田鍬を隋に使節として派遣したことが記述されています(聖徳太子による遣隋使)。
『隋書』によると、遣隋使の派遣は3回あったようです。

唐 :618~907

遣唐使は、630年の犬上御田鍬から始まり、894年に菅原道真の意見によって廃止されるまで16回唐を訪れ、唐の文化をわが国に紹介しました。

また、663年、天智天皇のとき、百済をほろぼした唐と新羅の連合軍と、百済の王族を助けた日本とが朝鮮の白村江で戦い、日本軍は惨敗しました。

宋(北宋) :960~1127

・南宋 :1127~1279

平安時代の中期から鎌倉時代の中期にかけて(10~13世紀)、宋との交易が盛んでした。
特に平清盛は大輪田泊(現在の神戸港)を改修し、宋と活発に貿易を行いました(日宋貿易)。
宋銭が大量に輸入され、国内で流通しました。

元 :1271~1368

元への服属を鎌倉幕府が拒否したことから、元と高麗の連合軍が二度にわたってわが国に攻め込みました(元寇)。
1274年の襲来を文永の役、1281年の攻撃を弘安の役といいます。
8代執権の北条時宗を中心に、九州の御家人の奮闘もあって、元軍は撃退されました。

明 :1368~1644

倭寇の取締りを求めてきた明に対し、室町幕府将軍が「日本国王」として朝貢貿易をおこなったのが日明貿易です。倭寇と区別するための許可証である勘合を使用したので勘合貿易ともいいます。
3代将軍足利義満のとき最も盛んでした。
輸入された明銭は日本国内で広く流通しました。

また、豊臣秀吉が企てた朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)では、李氏朝鮮を助けた明の大軍が日本軍と戦いました。

清 :1616~1912

わが国が鎖国をしていた江戸時代、オランダと清のみが長崎の出島で貿易を許されました。

明治になって、1894年、朝鮮で起こった甲午農民戦争に出兵した日本と清が、朝鮮の支配権をめぐって戦ったのが日清戦争です。
日本が勝利し、1895年の下関条約で、日本は清から台湾・遼東半島を奪い(遼東半島は後に三国干渉で返還)、巨額の賠償金を獲得しました。

中華民国 :1912~1949

第一次大戦中の1915年、日本は中華民国に対し、旧ドイツ権益の継承など21か条の要求をつきつけ受諾させました。中国では激しい反日運動が起こりました。

1931年、奉天(現在の瀋陽)郊外での鉄道爆破事件(柳条湖事件)をきっかけに日本軍は中国東北部へ侵攻し(満州事変)、1932年、満州国を独立させて実質上わが国の属国としました。

北京郊外で起きた盧溝橋事件をきっかけに、1937年~1945年、日本と中国が戦った戦争が日中戦争です。
満州を支配したわが国はさらに華北への侵略を企てました。中国国内で内戦を続けていた国民政府(蒋介石)と共産党(毛沢東)は休戦し、わが国と戦いました。
戦争は長期化し、太平洋戦争に突入したわが国は、1945年、ポツダム宣言を受諾して降伏しました。

中華人民共和国 :1949~ 

1972年、田中角栄首相が中国を訪問し、中国との間で日中共同声明を調印しました。これによって、日本と中国の正式な国交が回復しました。
日本は中華人民共和国政府が中国唯一の合法政権であることを認め、台湾との外交関係を絶ちました。中国は戦争賠償請求権を放棄しました。

1978年、福田赳夫内閣のとき、日本と中国との平和友好関係を強固にし発展させることを目的とする、日中平和友好条約が調印されました。
日中両国関係発展の指針、覇権反対の表明、経済・文化関係の発展と国民交流の促進などを規定しています。


俊英塾代表。「塾学(じゅくがく)」「学道(がくどう)」の追究がライフワーク。隔月刊誌『塾ジャーナル』に「永遠に未完の塾学」を執筆中。関西私塾教育連盟理事長。