“1000” JEAN PATOU
「その香り良い香りですね」
5月にフランス添乗をした際に、ツアーに参加されたお客様の香水の香りが、今まで嗅いだことのない香りだった。
80歳になったばかりというマダムから、その例えようもない優雅な香りが風に乗って運ばれてきた。
彼女は、フランスには10回以上来たことがあるけれど、今回は地方に住む2人の姉妹をフランスに連れてきたくてこのツアーに参加したと言う。
「どこの香りですか?」
「もう廃版になってしまった香りでね。
JEAN PATOUの“1000(ミル)”と言うのよ」
香水フェチの私にとって“1000”は、憧れの香りだ。『世界でいちばん高い香水』として長く有名な香りだった。
もちろん手に取ったこともないし、嗅いだこともない。
ただ、名前だけは香水の歴史に輝くほどの名香なので知っていた。
「名前は知っています。でもこの香りをまとっている方にお会いしたのは初めてです」
「実は今回フランスに来たもう一つの理由はね、もうすぐ“1000”がなくなりそうだから、パリの本店にまだ残っていたら買いたいと思って」
“1000”が高価な理由は、春の一時期しか咲かない『黄金の花』とも呼ばれる、種類によって白や黄色の小さな花をつける中国原産の小灌木、オスマンサスの花の香りがとても貴重だからという。
名品といわれ沢山の人たちに愛されていたのに、廃盤になった理由は分からない。
「高貴な香りということは、香水をつけない人でもすぐに分かるわ。私からすると “1000”=姉の香りというほど親しみ深いわ」
2番目の妹さんがそう言う。
この香りがイメージする女性像は、“ミューズ”だという。
演出するテーマは、一流の指揮者によって率いられたオーケストラが演奏する交響楽を聞くように、複雑に、贅沢に、湧きだす泉のような香り。
だから愛用者には女優、オペラ歌手などが多いのも、この香りがドラマチックな世界をさらに素晴らしく演出してくれるからだそうだ。
パリでの自由行動の翌朝、その方は私を見つけると杖をつきながらも足早に歩み寄り、残念そうにこう言った。
「昨日は、記憶をたどってJEAN PATOU本店に行ったはいいけど、やはり在庫はなかったわ。“JOY”しかなかった。
高価すぎたからなのか、高貴すぎて一般受けしない香りだからか分からないけど、もう手に入らないと思うと大切な機会にしか“1000”は着けられないわね」
「それは、残念でしたね…」
「私ね、去年まで8年間の鬱だったのよ。
恥ずかしい話だけど、去年夫が亡くなって鬱がすっかり治ったの。
言いたい事も言えず我儘な夫の顔色を伺いながら生きていたからなのね。
夫が在命の時は、原因は何かなんて分からなかったけど」
彼女は、ちょっと顔を曇らせた後、明るい笑顔に戻りこう言った。
「もう先が長くはないからね、こうやって3姉妹でパリにも来たの。
病気の間ずっと飲まなかったワインも飲むようになったわ。
香水だって去年まで付ける気にもならなかったのよ。
でも残りの人生、今から楽しまなきゃね!」
「とてもお元気そうに見えるので、病気だったと伺ってびっくりしました」
「そう、長かったわ…せっかく元気になって、大好きな香水を買うためにパリに来たけど、買えなくてガッカリ。
でもあと3本は家にあるから、もしかしたら毎日着けても死ぬまで持つかもね」
そう言って彼女は笑った。
「実はね、この香りを姉に似合うと言ってプレゼントしてくれたのは、お義兄さんなのよ」
あとでこっそり、妹さんが教えてくれた。
昨日、たまたまオークションで“1000”(ミル)を見つけ買ってみた。
多分私にはまだ早い香り…でも、彼女の歴史が刻まれたその優雅な香りを少しでも身近に感じてみたくて。
美味しいものを美味しいと感じ、馨しい香りを愛おしいと感じ、大好きな人と共に時を過ごそうと思えること。
それこそ私たちが「生きている」ということなのかもしれない。
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