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終焉の美

今日の生け花のお稽古の時、背後から

「わあ!綺麗!」

と、声が上がった。

振り返ると、最近新しく入った生徒さんが満開の真っ赤な薔薇を手に持ちウットリと眺めている。

その光景を見て、思ったことがある。

生け花を小学生の時から習っていると、一輪の赤い薔薇に彼女が見たのと同じ美しさを見出せなくなってきていると。

それは少し悲しいことかもしれないが、「美意識の変容」とも言えるべきことで、どちらが正しい訳でもない。

私は百花繚乱と咲き誇る花々よりも、しなやかに項垂れる小手毬や、蕾からうっすらと黄色が透けて見える水仙、まだ芽吹く前のゴツゴツと逞しい桜の枝や、少し茶色く変色した紫陽花の葉に、より美しさを感じる。

昔から日本人は、満開の花より散りゆく花に刹那の美を感じてきた。その日本人独特の侘び寂びの美意識を呼び起こすのが、生け花を習う醍醐味だと思う。

日本語には、花の種類によって終わりの表現が様々あると先生が教えてくれた。

桜は「散る」

梅は「こぼれる」

紅葉は「舞う」

百合は「萎れる」

蓮は「沈む」

椿は「落ちる」

雪柳は、「吹雪く」

牡丹は「崩れる」

このような花の終焉の表現の多様さに、日本の美意識の真髄は息づいている。

例えば、この句。

「雪柳は火の奥に牡丹崩るるさまを見つ」加藤楸邨

「崩れる」は主に詩の中に使われる表現で、もちろん一辺倒に「散る」と言ってもなんら問題ではない。

でも、もしこの句に「散る」を使ってしまっては、その粋は失われてしまう。

大輪の牡丹が、火の奥で崩れ落ちるように散る最期の姿は、想像しただけであまりに美しく切ない情景だ。

その「美しいものへの想い」は言葉に宿る光となり、私たちの心を灯し続けてくれる。

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