性犯罪判決への批判について

刑事裁判において,実際に起こった出来事(神の目から見た真実)が100%明らかになるということは「絶対に」ありません。これは性犯罪であろうがなかろうが無関係です。例えば,防犯カメラで一部始終映像が残っていたとしても,犯行に至る経緯や当時の主観が明らかになることはありません。
被告人が自白していたらどうでしょうか。被告人が犯行に至る経緯から当時の主観面について洗いざらいしゃべっていた場合です。この自白を裏付ける証拠も残っていた場合,神の目から見た真実が明らかになったようにも思えます。しかし,それは,あくまでも訴訟上「被告人の自白が客観証拠と整合し,信用できる」と判断されただけであり,イコール神の目から見た真実かどうかは「分からない」のです。
つまり,被告人が自白していても,神の目から見た真実とは違うという場合もあるのです。歴史的にも,無理やり捜査機関から自白させられ,その調書を作らされた,というケースはあり,発覚してないそのような冤罪もあるでしょう。


昨今,性犯罪の無罪判決が続き,それに対して批判的な意見を多く目にします。当然,性犯罪か否か,民事か刑事かを問わず,批判されるべき判決はあるでしょう。おそらく昨今批判をしている人々は「神の目から見た真実」が明らかになるよう努めろと言っているのだと思います。しかし,前述したように,それは不可能なのです。そうなると,「神の目から見た真実」に近づくように努めろ,と言うのだと思います。もちろん,それは近づくに越したことはありません。しかし,我々法律家は,神の目から見た真実に近づけようとし過ぎた結果,自白が強要され,冤罪が生まれやすくなってしまうということを歴史から知っているのです。つまり,「神の目から見た犯罪者を逃さない」という姿勢を強めすぎることは,冤罪が生まれやすい結果を招きかねないのです。

もちろん,本当は犯罪行為をしたのに無罪になってしまうことは法律上あり得ることです。そのような場合,被害者がつらい思いをすることは事実でしょう。しかし,自分が本当は犯罪などしていないのに警察署や拘置所に何十日も身柄拘束され,場合によっては弁護士以外の味方と話もできず,連日取調べを受け,罵声を浴びせられるなどして自白させられ,有罪になってしまう人もつらい思いをするのです。

つまり「本当に犯罪した人が100%処罰され,本当はやっていない人は100%処罰されない」世の中などは存在しないのです。これは被害者側の方々にとっても異論のないはずのことなのですが,昨今の批判はこの前提を無視しているような印象があります。もちろん,法改正などによる修正の必要があることもあるでしょう。しかし,それは立法機関である国会に言うべきことです。国会が立法した法律に基づいて適切に判断した裁判官を批判することは筋違いです。判断をした裁判官を批判するのであれば,判決を分析しない限りはできないはずです。義務教育で習う「三権分立」について,もう少し意識をした上で理性的な議論がなされることを望みます。