判決に対するデモや弾劾扇動への違和感

先日の性犯罪無罪判決を受けて,判決に反対するデモや,担当裁判官の弾劾を促すTwitterアカウントなど,様々なことが起きています。おそらく,多くの弁護士がそれらに異論を述べておりますが,当事者にはその異論の趣旨が届いていないように感じられます。そこで,今回はこの点について私の見解を説明してみます。

まず,「一般人だって判決に対して意見を述べてもいいではないか」という意見についてです。これは「OK」でしょう。もっとも,判決文の要旨すら読まずに反対することが,そもそもできるでしょうか。

判決は,結論とその理由で構成されます。そして,その理由には,証拠の評価や事実認定など様々なことが記載されています。この理由を読みすらせず,「この無罪判決には反対だ」と言える理由は何なんでしょうか。「報道で事案は知っている。これが無罪などあり得ない。」という程度の理由だと思います。しかし,証拠がなければ有罪にはできません。これはさすがに皆さんご存知のことと思います。そして,どのような証拠があり,どのような事実認定がされたのか分からないままに「結論と報道による事案」のみから判決を評価することはできません。

たとえば,「Aは当時眠っていた」という事実が認定されていたところに,「眠っていたままなのであればAは嫌がっていたはずはない」という裁判官の「推認」が判決文に記載されており,この点を批判するというのであれば,その当否はおいておいてもあり得る批判だとは思います。このように「どうして無罪になったのか,それは妥当なのか」というレベルでの批判をするには,判決文を読むしかないのです。判決を読まずに批判ができると思っている人は,小説のタイトルのみで中身を読まずに「この小説はつまらない。不買運動をしよう。」と言っているようなものです。誰も信用しないでしょう。

次に,デモや弾劾扇動のおかしな点についてです。司法の場は,そもそも少数者の人権が多数者の意見によって侵害されることのないよう独立性をもって存在しています。ここで,おそらく皆さんが「少数者」になることはないと確信しているから,大勢の人を巻き込んで運動をしようと思うのでしょう。しかし,あなたやあなたの親族・友人が痴漢の冤罪で逮捕・起訴されたとしましょう。テレビでは「あいつはこんなAVを持っていた。こんな性癖があった。」とプライバシーが暴露され,「あいつを有罪にすべきだ。あいつはやったに違いない。」というデモが起きて,さらにはそのデモに影響されて裁判官が有罪にしたらどう思うでしょう。あなたやあなたの周りの人が常に多数者でいることができる保障があるのでしょうか。みんないつ少数者になってもおかしくない。その時に人権が守られるような制度が司法の制度なのです。

おそらくこれらの私の意見に対しては「今回の無罪判決で被害者の人権が害されているではないか。」といった反論をする人がいるでしょう。これについては,前回のnoteで書きましたので割愛します。

また,「デモも表現の自由だ」と述べる人についても目しました。もちろん,それはそうです。しかし,表現の自由で保障されるからといってすべてふさわしい行為かというとそんなことはありません。例えば性描写等についても「表現の自由」レベルでは保障されていますが,ふさわしくないと考える人もいるでしょう。今回の件も,多くの法曹が「ふさわしくない」と考えているというだけです。その理由は前述したとおりです。

では,今回の判決を出した裁判官への弾劾を扇動する行為はどうでしょう。単に個人で弾劾を求めるのではなく,不特定多数人に呼び掛ける行為です。我が国は三審制を取っており,一審判決が控訴審で覆ることも珍しくありません。しかし,覆った一審判決を出した裁判官が常に弾劾されるかというとそのようなことはないでしょう。今回の件も同様です。扇動者にとっては「今回の裁判官は違う。民意に問うのだ。」等の持論があるのでしょう。そうでれば,単に判決等の紹介をすれば,自ずとそれを見た人も「あの裁判官はけしからん。」と思うようになるのではないでしょうか。どうしてわざわざ弾劾まで扇動するのでしょうか。弾劾を人数によって押し通そうとする行為は,(本当に押し通せるか否かはおいておいても)前述したデモと同様の危険な行為だと考えます。

このように,今回の判決に異論を唱える手段についていずれもふさわしくないと述べると,今度は「素人が裁判官の判決に異論を唱えてはいけないのか。」と言い出す人も現れることでしょう。しかし「異論を唱えるのは結構だが方法がふさわしくない。」と言っているだけです。なぜ,異論を唱える人が判決を読まないのでしょう。なぜ,わざわざ他人に同調を呼び掛けるのでしょう。なぜ,勝手に被害者を代弁するのでしょう。

私の知り合いには,熱心に被害者弁護活動やその方法の拡充に努めている弁護士がたくさんいます。しかし,今回の活動はいずれも,その人たちの足を引っ張る行為だと考えています。被害者を「勝手に」代弁し,不当要求を声高に叫ぶ行為は,多数人による無形の暴力の扇動であり,本当の被害者の声を埋没させる行為です。もちろん,デモや弾劾扇動に同調する人もいるでしょう。そのような人たちは,元々問題意識を持っていた人が多いと思います。しかし,本当に方法の拡充等を狙うのであれば,「現在は特に被害者の気持ちや活動・方法などの問題について考えたことなかった人々」を取り込んで民意を形成していくことです。そのような方々が今回のデモや弾劾扇動を見てどのように思うでしょうか。自分たちの行動の目的は何なのか,その目的のために正当な手段なのか。いまいちど考える必要があるのではないでしょうか。