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【小説】凶兆の黒猫

不気味な黒猫につきまとわれる男の話。

 ごろなーご

しわがれた声に男はビクッと肩を跳ねさせた。振り返るとブロック塀の上に一匹の黒猫が座っている。闇に浮かぶらんらんとした金色。それはまるで真夜中にぽつんと佇む街灯のような、いやに目立つ明るさだった。
男はそれを見つけるや否や、苛立ちのこもった声で猫を威嚇した。

「ちっ、またお前かよ。どっかいけ」

だがシッシと手を振るも猫は動く気配もない。それどころかあくびを一つしてまた気味の悪い声を出す。枯れ木のようにやせ細った老人のような声を。男は猫が嫌いだった。いや正確に言うとこの黒猫が嫌いだった。その他の猫は嫌いじゃない。むしろ好きなほうだ。

最近もテレビで特集を組まれていたマンチカンだったか、スコティッシュなんちゃらだったか短い足でちょこちょこ歩き回る姿やふさふさの尻尾を揺らすたれ耳の猫たちは癒しの塊でかわいかった。あの姿であれば何時間でもみていられる。

翻ってこちらはどうだ。だいたい第一声からかわいくない。ごろなーごってなんだ。猫は普通ニャーだろ。高く甘えるような声ならばまだ許せる。だがコイツの鳴き声はしわくちゃで、午後のうららかな窓辺よりも夜中の墓場のほうが似合いそうな不気味な鳴き声なのだ。はっきり言って嫌悪感がわく。

次に大きさだ。この黒猫は両腕で持ち上げるのにも少々苦労しそうなずんぐりむっくりでやけに迫力がある。その圧が忌避したくなる雰囲気を作り出しているのかもしれない。

最後に目だ。あの反射板のような目。どんな暗闇でも一目でわかる冷えた刃物のような目。あの目に囚われると見たくもないのにそこに縫いつけられる。ヤツはそんな奇妙な力をもっていた。

それに、だ。男がこの猫を嫌う理由はもう一つあった。それは他人が聞けば思い込みだと鼻で笑われるような信じられない話なのだが、本当にあった話なのだ。

「お前の顔なんて見たくないんだよ。さっさとどっかいけ。でないと殴るぞ」

拳を振り上げたところでようやっと猫は動いた。ひらりとブロック塀から下りて民家の茂みに入っていく。ああ、やっといなくなったとほっとしたのも束の間。

ごろなーご

またあのしゃがれ声が聞こえて飛び上がる。思わず顔を向けると葉と葉の間から光る目がのぞいていた。まるで見ているぞとでもいうかのように。
視界が真っ赤になり、今度こそあの忌々しい毛玉を蹴っ飛ばしてやろうかと思ったが、最後の理性が男をとどめた。

ここはよそ様の家だ。勝手に入ったら不法侵入、おまけに黒猫をそのままにしておけば動物愛護法でお縄。こんなヤツに自分が罪を被ってまでやる道理なんてどこにもないじゃないか。

男は沸騰直前で今にも泡が吹きこぼれそうな頭に言い聞かせ、悪態をつきつつ足早にそこを離れた。この道が一番の近道だが仕方がない。あの猫がいた場所なんて通りたくないのだ。しかしあの声だけはいつまでも耳にこびりついて離れなかった。

男が初めて例の黒猫を目撃したのはもう数か月前にもなる。ヤツは道端に座っていた。踏切の一歩手前、控えめな花束がそよぐ警報機の足元にうずくまっていた。最初はなんだこの黒い塊、石か? と思ったが、近づくにつれてそれが毛に覆われた動物だということがわかる。

「なんだただの猫か」

脇を通り過ぎるようとしたそのときだった。突然ヤツが顔を上げる。ばちりと音がしそうなほどはっきりと目があった。まるでホラー映画の朧月夜のような不穏な雰囲気の猫だ。
ヤツは三日月のような口から毒々しい真っ赤な舌をのぞかせ、ひと声鳴いた。

ごろなーご

全身の毛が総毛だった。本能が警鐘を鳴らす。これはいけない、近寄ってはいけない。頭にそんな文字がちらつく。男は遮断機が下りていないことを認めるや否や駆けだした。はっ、はっ、と息切れの中で後ろを振り返る。ヤツはその場から毛先一つ一つ動かしていなかった。
いや一つだけ動かしていたものがある。あの光る金はこちらをじいっと見つめていた。

だがその後は見かけることもなく、いつも通りの日常が過ぎていく。結局あれがなんだったのかわからずじまいのままなのはしこりが残るが、日々の仕事をこなすのに忙しく、それは徐々に記憶の底に眠るはずだった。

その一週間後。ヤツの姿も忘れかけていた頃だった。男は叔母の葬式にでるため、車で会場に向かっていた。

「まさか叔母さんがあんなに早く亡くなるなんてなあ」

叔母は子供を欲しがっていたが、結局できずにそれが原因で離婚した。そのためだろうか、時折会った際には大層かわいがってくれた。遊園地につれていってくれたりお菓子をくれたり。小さい頃にはそんな叔母が大好きで自分の家に帰りたくないと泣きわめいて親を困らせたときもあったものだ。

『そんなに好きならずっとここにいてもいいんだよ。こうちゃんがここにいてくれるなら私も嬉しいもの』

叔母は柔和な笑みを浮かべてよくそう言ってくれたものだが、流石にそれはできないので、いつも引きずられながら帰っていた。小さな点になるまで手を振って見送ってくれた大好きな叔母。彼女は先月末期癌と診断されて、あっけなくこの世を去った。

「叔母さんが好きな羊羹供えてあげなきゃな」

助手席の紙袋に視線を落とす。白い紙袋には筆で書いたようなデザインの店の名前がプリントされており、中には叔母が好きだった栗羊羹が入っていた。舌触りが滑らかで上品な甘さの栗羊羹。彼女がこれを好きと知ってからは手土産としてよく持っていったものだ。
懐かしい微笑みを思い出して頬が緩む。そうしてふと前を向いたときだった。視界の端に何かがうずくまっている。ふいにソイツが顔を上げた。

ごろなーご

窓を閉めて音楽をかけているというのにはっきりとヤツの声は届いた。毛やひげの一本一本が風にゆれるところまでよく見える――まるでスローモーションのように。満月の長楕円形の割れ目が男を追ってゆっくりと右から左へ流れる。ヤツの目は確実に男を見ていた。あの猛禽類のような瞳で。

心臓が早鐘のように鳴っている。いつの間にか呼吸を止めていたのか喉がかひゅっと奇妙な音を立てた。

「違う、偶然に決まってんだろ」

ハンドルが汗で濡れているのは勘違いだ。そうに違いない。男はアクセルを思い切り踏んでその場を後にした。

叔母の葬式はつつがなく終わった。死に化粧した叔母は最後にみた顔よりも顔色はよかったが、丸みのあった頬は瘦せこけ、記憶よりも一回りほど小さくなった身体に一抹の寂しさを覚えた。

「あんた、本当にかわいがってもらったもんねえ。なんでこんなに早く……」

目尻に涙をためて嗚咽を漏らす母の背を撫でながら、男は唇を嚙んだ。父は少し離れたところで親戚たちと話をしていた。

母がいてくれてよかったと思う。母がいなかったら母のように泣き崩れていたのはきっと自分だった。進路に迷っていたとき背を押してくれた叔母、初めての一人暮らしで不安でいっぱいのときいつでも帰ってきてくれていいのよと手を広げてくれた叔母、成人式のときには母よりも喜んでいたっけ。思い出があふれて止まらない。

視界が急速にぼやけてきて男はさらに強く唇を噛む。母に寄り添いながら男は四角い箱に閉じ込められた笑顔の叔母を見つめていた。

「もう帰るのか」
「そうよ、今日は泊まっていきなさい」

白髪混じりの眉毛をひそめて父が問う。母も便乗して腕を掴んだ。

「いや、そうしたいところやまやまなんだけど、俺明日も仕事でさ」

頭をかきつつ答える。両親は落胆した表情をみせたが、それ以上引き留めることはしなかった。

「仕事もいいが、あんまり無理はするな」
「気をつけて帰るのよ」

皺だらけの手がこちらの手を握りしめる。それにぎゅっと握りかえして男は車に乗りこんだ。

「わかっているよ。父さん、母さんも身体に気をつけろよ。もう若くないんだから」
「お前もいうようになったな」
「まあ生意気いっちゃって」

両親はくすくす笑った後、ふいに寂しそうな笑みをみせた。

「四十九日に帰ってこいとは言わないからたまにはあの子にも顔をみせてやってね。あなたがいくときっと喜ぶわ」

ぽつり。胸の中に一滴寂寥感が広がった。ハンドルを握る手に力がこもる。

「……うん、絶対また顔をみせにいくよ」

男は手を振って帰路についた。

その晩のことだった。男は夢をみた。自分はなぜか小さくなっていて、ちょうど小学生くらいの体つきになっていた。

『――』

誰かが遠くで自分を呼んでいる。やわらかく慈しみにあふれた声が呼んでいる。男は迷うことなく駆けだした。野原をかけていくと誰かが立っているのが見えた。その人物が誰かわかったとき、男は全力疾走で駆けだした。

「おばさん!」

まだ若く元気だった頃の叔母が立っている。叔母お気に入りの白地に花柄がプリントされたワンピースを着て。ショートボブの茶髪が心地よい風に揺られてふわりと凪いだ。

「あら、よくきたねえ」

叔母は両手を広げて男を出迎えた。その若々しい体に抱きつく。勢いよく抱きついたというのに叔母はしっかりと二人分の体を支えた。日向の匂いが鼻をくすぐった。

「やっぱりこうちゃんは私のことが大好きねえ」
「うん、おばさんのこと大好きだよ」

笑顔で答えると叔母は笑みを深くした。

「そうなの、それは嬉しいわぁ。おばさんも会いたかったの」

叔母はそっと体を引き離すと手首を掴み、野原の先を指差した。

「じゃあ一緒にいきましょう。みせたいものがあるのよ。きっとこうちゃんも気に入るわ」

叔母が言うならそうなのだろう。昔から自分の好みを知り尽くしている叔母がいうのならば間違いない。一歩踏み出そうとしたそのときだった。

ごろなーご

ぞくりと背筋に冷たいものが走った。青々とした葉は枯れ、空は黒くなり、景色が一瞬にして変わった。それだけではない。暖かな太陽の匂いは消え、線香の匂いに混じって、隠し切れない変に甘ったるいようなドブのような吐き気をもよおす異臭が立ち込める。叔母を見上げると叔母は今までに見たこともないような形相をしていた。顔中深い皺が刻まれ、一気にふけこみ、まるで山姥やまんばのような顔だった。

「おばさん……?」

怯えながら話しかける。はっと叔母は誤魔化すように微笑んだが、口元は引きつり、ひくひく動いて気味の悪い笑顔だった。

「ごめんね、こうちゃん。ちょっと急ぎましょう」

そういうや否や叔母はその体のどこにそんな力があったのかと驚愕するほど恐ろしい力で引っ張っていく。その間にもどんどんあの鳴き声は近づいてきていた。

「あとちょっとなのに……」

叔母が険しい顔で呟いた。しかし荒れ狂う風によって男の耳に入ることはなかった。

ごろなーご

ついに耳元で鳴いたのではないかと思うほどはっきりと鮮明にヤツの声が聞こえた。と、次の瞬間、突風が背中を押しのけ、空に黒い影が落ちる。はっと視線を前に向けると、叔母の目の前にヤツは立っていた。二メートルはあろうかという体がこちらを見下ろしている。毛を逆立てて、地の底から唸り声をとどろかせながら。ぎらぎら光る目にちっぽけな自分たちが映った。

「あなたの思い通りにはさせないわ」

両手を広げて叔母が自分の目の前に立つ。

「ちょっ、やめてよ。おばさん、こんなでかい化け物じゃやられちゃうよ。おばさんがやられるくらいなら俺が」

なんとか叔母の前に回りこもうとするも叔母は頑としてどかない。そうこうしているうちに猫は無情にも前足を振り下ろす。とっさによけると叔母と自分の間に亀裂が生まれ、みしみしと音を立てて二人の間が広がっていく。

「おばさん!」

叔母の前にはまだヤツがいる。男は飛び越えようとしたが強い風に阻まれて一歩も動けない。叔母が髪を振り乱しながら何か叫んでいる。

「いい? 絶対にコイツのことは信じちゃダメよ! コイツはね――」

一層強い風が吹き、子供の体であった男は紙くずのように吹き飛ばされた。

「おばさん! おばさーん!」

精一杯叫んでも、手を伸ばしても、届くどころか距離は離れていくばかり。最後に見えたのはヤツと対峙する叔母の背中だった。

はっと目が覚める。全身は冷や汗でぐっしょりとしていた。荒い息だけが部屋に落ちる。べたつく前髪をかき上げると枕元に赤い何かが転がっているのが見えた。手を伸ばしてそれを掴む。赤い布地に金糸で書かれた御守という文字。端はところどころほつれ、裏には小さく縁と刺繡されている。そのお守りの近くには明らかに自分の髪の毛ではない黒い毛が数本落ちていた。

「おば、さん」

死にゆく叔母がいつの間にか作っていたお守りだった。骨と皮ばかりになった手でこれを渡した叔母はいった。

『これあげるわ。私がいつでもみていられるように、想いをこめたからね。裏の縁っていう文字は、やっぱり縁というものは大事だからね。こうちゃんにいいご縁がありますようにって』

叔母が守ってくれたのだろうか。男は小さなお守りに額を押し当てて、歯を食いしばって震えていた。

叔母のお守りを片時も離さず持っていたからだろうか。それから一か月はヤツに会うことはなかった。もう男の頭の片隅に僅かに残るくらいになり、不安に駆られたときは叔母のお守りを握りしめればすぐにかき消えた。

そんなある日、男は同僚と仕事終わりに飲みにいくことになった。

「お前さあ、最近やけに辛気臭い顔してんじゃん。何か悩みでもあるわけ?」

肩に手を回して同僚が問う。ふざけた調子で尋ねてはいるが瞳には心配の色がのっていた。

「いや、特にないけど」

男は首をひねった。あるとすれば叔母の死と例の黒猫だけだが、叔母に関しては顔色に出るほど引きずっているつもりはないし、あの黒猫はもう忘却の域に片足を突っ込んでいる。

「本当にそうかあ? もし何かあるなら言えよ。愚痴くらいなら聞いてやるからさ」

同僚は尚も顔を近づけてこちらを伺っていたが、やがてぱっと体を離すとニヤニヤした笑みを貼りつけた。

「じゃ、今日はパーッと飲もうぜ。パーッと」

手を空に伸ばして馬鹿みたいに笑う同僚につられて男も笑った。どこに行くのか、この前の飲み屋か、それとも新規開拓に行くかなどと話しながらネオンで飾りつけられた街中を歩く。と、そのとき

ごろなーご

体が固まった。壊れた玩具のようにぎこちなく振り返ると、ビルの隙間にある薄汚い路地が映る。そこに無造作に置かれた、くすんだ青いプラスチックのゴミ箱のその上――そこにヤツはいた。ネオンとも蛍光灯とも違う異質な冷たい光を宿らせて。

ごろなーご

もう一度ヤツは鳴く。血のような赤い口の中に浮かぶ骨のような白い歯が目についた。

「おい、どうした? 突然止まって」

同僚が困惑した顔でのぞきこんでいる。吹き上がる冷や汗を押しこめて、男は平気な振りを装った。

「大丈夫だ、何でもない」

あれはただの猫だ。ただの猫が人間をどうこうできるわけないじゃないか。ひしひしと感じるヤツの視線から目を逸らし足を踏み出そうとしたその瞬間。

キキーッ

甲高いブレーキ音が響き渡り、大きく鈍い衝撃音が走る。思わず腕で顔を覆い、目をつぶった。

「え、は……?」

隣にいた同僚の呆然とした声に恐る恐る目を開ける。一歩先の店に一台の車が突っ込んでいた。徐々に周囲がざわめきだし、やばくないだとか誰か救急車をという叫び声が聞こえる。スマホを取り出して撮影している者までいた。

意思とは関係なしに体が小刻みに震える。散乱したガラスに青ざめた自分が切れ切れに映っていた。夜の街を切り裂くけたたましいサイレンがだんだん近づいてくる。

「お、おい怪我ないか」
「あ、ああ」

揺さぶられなんとか頷きかえす。幸いにも二人とも怪我していなかったため足をもつれさせながらその場を離れた。しかし先ほどの浮ついた気分は霧散し、どちらともなく今日は大人しく帰ろうと言い出した。もちろん否を唱えるはずもなく、男はお守り片手に家路を急いだ。

あの後死者はいなかったものの運転手は大怪我を負い入院しているとニュースで報じられていた。

「運転手は現在、意識を取り戻しており、警察が事情を聞いていますが、支離滅裂なことを言っており――」

アナウンサーの声が右から左に流れていく。

「クソッ、いったいなんなんだよあれはよ」

髪をかきむしって男は衝動のままリモコンを手にとるとテレビを消した。耳障りな音が消え、部屋は静寂に包まれる。少し溜飲が下がった男はひったくるようにハンガーからスーツを取り、袖を通した。

それからあれほどなりを潜めていた黒猫は頻繫に姿を現すようになる。会社に行く途中、取引先の会社の通り道にあるカフェの前、今日のような帰り道。その度に何か不吉なことが起きるのだ。ヤツのせいで一本前に乗るはずだった電車には乗り遅れ、おまけにその電車が事故か何かで運転見合わせとなり、会社に謝罪の連絡を入れなければならなかった。カフェの前でヤツに出会ったせいで、そのカフェの上の階にあった古びた看板が目の前に落ちてきたこともあった。今日だってヤツのせいで遠回りして帰らなければならない。

「本当に叔母さんには感謝してもしきれないな。叔母さんがくれたこのお守りのおかげであの黒猫からの難を逃れているんだから」

ヤツがもってくる災難のせいで何度も転び、これも幾度となく落としてしまったせいで鮮やかな赤はすっかり黒くなってしまっているが、それすらも男には大切なものに思えた。

そっと懐にしまい、男は街灯のみがついている住宅街を歩きだした。


「なあ最近お前本当に大丈夫? 目の下に隈できてんぞ」

以前飲みに誘ってくれた同僚が目の下を指差してそう言った。男は首をかしげる。

「そうか? 睡眠時間削ったこともないし、いつも通りだろ」
「いやいや、全然違うって。鏡みろよ」

別に見る必要もないと思ったが、彼があまりにもしつこいのでトイレの鏡で自身の顔を眺め、男は絶句した。

「な、なんだよこれ」

たしかに目の下には真っ黒な隈ができている。しかし悪夢にうなされた覚えも目が冴えて眠れないということもない。昨日だっていつもと同じ時間に眠りについて、同じ時刻に目覚めたはずだ。
水垢が薄っすら残る鏡に手をついてまじまじと眺める。だが何度見ても結果は変わらない。

「な? ひどい顔つきだっただろ?」

同僚が男に話しかける。だが男は頷きすら返せずに鏡を見つめることしかできない。

「なあ、お前マジで何があったんだよ。相談のるぞ」

固まる男の肩に手を置き、真剣な表情で語りかける同僚を見て男もついに決心した。

「じゃあちょっと聞いてくれるか。信じられないかもしれないけどさ……」
「もちろん、どんな突拍子のない話であったとしても信じてやるさ」

ここで話すのもなんだからということで仕事が終わった後、近くのカフェで話そうということになった。


「ふうん、その不気味な黒猫がねえ……」

コーヒーを片手に同僚は相槌を打った。おしゃれなジャズが流れ、カフェは穏やかな空気だったが、手元のコーヒーがどれほど芳醇な香りを漂わせようが、どれほど耳ざわりのいい音楽が流れようが、男には全て何の色も帯びないモノクロの世界のようだった。

「信じられないかもしれないが、本当なんだ。最近なんてもう毎日見ているんだよ」
「なあ」

一口カップに口をつけて同僚は言った。

「もうお祓い行ったらどうだ? 実害だってでているんだ。いつまでその叔母さんが持たせてくれたお守りの効力が続くかもわからないんだし」
「でも、どの寺だか神社がいいんだか俺わからないし……」

うつむく男に同僚はさらに言葉を続けた。

「じゃあ俺がいいところ紹介してやるよ。知り合いにすごい人いるんだ」「それマジ? インチキ霊能力者とかじゃないよな」

疑いの目を向けたが、同僚は真顔で首を振った。

「いや本物だ。間違いない。俺の知り合いもその人に救われているんだ。その人神主さんだし」

神主か。ならばまだ身元がわかる分マシかもしれない。男は藁にも縋る思いで同僚に頼みこんだ。

「頼む。その人に連絡をとってくれないか」
「もちろんそのつもりだ。ちょっと待ってろ」

スマホを取り出して同僚はどこかに電話をかけ始めた。

「……ええ、はい。本当にソイツ困っていて、もしかしたら命も危ないかもしれないんです。……はい、お願いします」

電話を切って同僚がこちらを向く。

「お前さ、今週末予定空けることができるか?」
「ああ。今週末は大丈夫だ」

頷くと同僚はスマホを操作して、地図をだした。

「ここに今週の土曜日行ってくれ。ちょっとわかりにくいから俺もついていきたいところなんだが、今週末はどうしても予定が入っていてさ」
「いや連絡をつけてくれただけでもありがとうな。これが無事解決したらなんか奢る」

申し訳なさそうに眉を下げる同僚に礼を言う。男は地図をトークアプリで送ってもらい、その場所に行くことになった。

電車に乗って数駅。さらにバスに乗って三十分。山や畑が多くなってきたものの、まだまだ住宅が残る、田舎とも都会とも言えない半端な地にその神社はあるようだった。男はスマホと睨めっこしながらその場所を目指す。

「えーっとあと次の角を曲がって、坂を上がれば着くはずなんだけど」

閑静な住宅地は休日の昼間だというのに、人っ子一人見えない。不気味な静けさが辺りを包んでいた。

「でもこれであの猫ともおさらばだ」

はやる足を動かして角を曲がろうとしたそのとき。

何かが角の先から飛び出してきた。どんっと衝撃が走り、男はよろめいてしりもちをつく。しかもそのぶつかってきた何かは男の懐に入りこみひっかきまでおみまいしてきたのだ。

「いった……なんなんだ、まったく」

顔を上げて男は凍りついた。あの黒猫が目の前にいる。しかもその口にくわえているのは大事な叔母のお守りだった。カッと血が頭に上る。

「っ、返せ! 返せよ!」

はじかれたように立ち上がったが、黒猫は素早く近くのブロック塀に飛び上がると民家の庭先に入り込んだ。

「返せ、このクソ猫!」

怒鳴り声を上げ、男は無我夢中で駆けた。が、家の垣根をこえ、自由に行き来できる猫と人間の自分ではどうしても分が悪い。結局見失い、男は道路の真ん中にへたりこんだ。じりじりとアスファルトが自分を焼く。この世の全てが自分を嘲笑っているかのようで、今は照らす太陽でさえも憎く感じた。

ププー

男はしばらくへたりこんでいたが、前からやってきた車にクラクションを鳴らされ、ふらつきながら脇に避けた。

「……仕方ない。行くか」

男はため息をつき、重い体を引きずって神社までたどり着いた。神社はどこにでもありそうな普通の神社だったが、青々とした木々に敷き詰められた砂利、ゴミ一つ落ちていない境内、よく手入れされていることがわかる。鳥居をくぐると深い森のように清純な空気が男の肺を満たした。

「遠いところからよく来なさった。事情は聞いています。さあ、上がって」

いつの間に姿を現したのか、白い装束をまとった初老の男が立っている。手招きされ、神主の後に従って男は本殿に入った。

「たしかについ先ほどまで恐ろしいものに憑かれていたようですね。まだ邪気が残っている」

座布団に座るよう促されて男は座った。邪気だとか悪霊云々以前に叔母のお守りをヤツに奪われたことのほうが気にかかる。神主の話はほとんど右から左に流れていった。

「あの、俺はどうなるんですか。あの猫に殺されるんでしょうか」

それはもはや独り言のような呟きだった。神主は安心させるように微笑んむ。

「いえ、もう原因は取り除かれております。今日のお祓いで残った邪気を取り除けばもう大丈夫ですよ」

早速お祓いの準備を始める神主に男は問いかけた。

「あの、つきまとっていたあの黒猫はなんなんでしょう。やっぱりその神主さんが言う悪霊の類ですか」

神主は目を見開き、不思議そうに言った。

「先ほどから疑問に思っていたのですが、今回あなたを苦しめた類のものは猫とは特に関係ないことのように思うのですが」
「は? それはどういうことですか!? 俺はあの猫に散々苦しめられてきたんですよ!」

怒鳴る男を神主はまあまあと言って宥める。

「まずはお祓いをしましょう。その後にじっくり話を聞こうじゃありませんか」

その後、和紙を大量につけた棒を持ち、男にはよくわからないことばを唱え、最後に塩をまかれて無事にお祓いは終了した。同僚が太鼓判を押した実力は本当で、終わった途端、体が羽のように軽くなり、頭がすっきりしていく。逆に今までどのようにしてこんな重い体を動かしていたのか不思議なくらいだった。

「ところでその猫というのはどういうことですかな」

お茶をすすりながら神主は尋ねた。男の目の前には湯気の立つ緑茶に煎餅や饅頭が盆の上に置かれている。

「えっと、これは数か月ほど前の話になるのですが――」

男は洗いざらい神主に話した。神主は静かに聞いていたが、神妙な顔で言った。

「申し訳ないのですが、そのお守りの写真はありますか」
「えっ、もっていたかな」

スマホのフォルダを探ってみる。しばらくは関係ない写真しか出てこなかったが一枚だけ保存してあった。両親に以前お守りの話をした際、見たいとねだられてトークアプリで送る用に撮ったものだった。写真には何の変哲もない、御守ときっちりした文字が刺繡されているただのお守りが映っている。

「これですけど……」

手渡すと一目見て神主は険しい顔つきになった。

「あのですね、心して聞いてください」

凛とした声に自然と背筋が伸びる。神主は重々しく口を開いた。

「恐らくですが、あなたの不調はこのお守りのせいかと思われます」

「えっ、だってそれは叔母がくれたものなんです。なにかの間違いなんじゃないですか」

男は大きく狼狽えたが、凪いだ湖面のような瞳に口を閉ざした。

「いいえ、どうみてもこれはお守りというには恐ろしいものがこめられています。たとえあなたのためを想ったが故の行為だったとしても、これはあまりにも悪影響を及ぼすものです。ほらよく見てください」

スマホを返されて、男は絶句した。先ほどみたときはたしかに美しい朱だったお守りは沈んだ赤に変わっており、それはまるでこびりついた血のようだった。そういったことに何の知識もない男でもこれは異様なものであると直感する。

「いや始めはこんな薄気味悪い色じゃなかったんです! なんでこんな色に……」
「いえそれが本来の色ですよ。あなたや周りの人を騙すほどの力をもっていましたから普通の人では気づかないんでしょうなあ」

神主は顎をさすって淡々と述べた。

「それからその猫に関してですが、私が実際に見たわけではないので断定はできません。ですが、その猫はあなたを不幸に陥れようとするよりはどちらかと言えば警告をしにきたのではないでしょうか」

男はぽかんと間抜けな顔を晒していた。神主の言葉が飲みこめず発したのはただ一言、

「叔母さん、なんで……」

だった。気遣うように神主は優しく声をかける。

「ひょんなことから悪影響を及ぼしてしまうこともありますし、きっとあなたを想う気持ちは噓ではないはずです。そこまで気を落としなさらずに」

そうは言ってもやはり気にかかる。思い返してみればあの黒猫と初めてあったとき、あの日に叔母からお守りを手渡されたのだ。ヤツと会うから不幸が訪れるとずっと思い込んでいたが、本当に? 本当にそうだったのだろうか。
ヤツがいたから足を止めた。ヤツがいたから遠回りした。ではヤツがいなかったら、自分はどうなっていただろう。

目の前の店に突っこんできたあの車がよみがえる。ぐにゃりと曲がった柱、粉々のガラス、そして誰かの、赤。
もしあのときヤツがいなかったら、あれらと同じように自分も――

ではあの夢は? あのときは黒猫が襲いかかろうとしたようにしか見えなかったが、叔母と自分を引き離そうとしただけではないのか。思えばあのときのヤツの目は俺ではなくてずっと隣の叔母を睨んでいたのではないか。

――もしあのとき叔母の後をついていっていたら、いったいどうなっていたのだろうか。

手先がすっと冷えていく。男はしばらく震えが止まらなかった。


人気のないシャッター通り。照らすは点滅する古ぼけた街灯ただ一つ。無機質な細長い金属板の上を猫の影が歩いていた。と、突然小さな影は膨れ上がりやがて一つの人影に変わる。

寂れた商店街を歩くのは一匹の猫ではなく、夜色のローブをまとった青年だった。端が少々ちぎれた古めかしいローブはこの場所に似合わないが、何よりも目をひくのは肩に担いだ腰あたりまで刃がある大鎌だ。灯りが点滅するたびに、青年が歩を進めるたびに、温度のない光がきらめいた。

青年がぶらぶらと歩いていくと、前から同じ格好をした、これまた若い男が現れた。彼はさらりとした短い黒髪をなびかせて物腰柔らかに問いかける。

「おつかれ。ちゃんととれた?」

目の前の彼の顔には人好きのいい笑みを浮かんでいた。

「ああ、ちゃんととれたぞ。肌身離さず持っていたからかなり苦労したけど、ほら」

青年の指にはどす黒い赤に染まったお守りが揺れている。それから漏れ出す禍々しい気に彼は顔をしかめた。

「うわっ、相当強い念がこもってんなこれ。そんなのずっと持っていてよく死ななかったもんだ」

彼が眉根をよせるのも無理はない。年単位で降り積もった執着は澱のようによどみ、この世にこびりついているからだ。愛というにはそれはあまりに生々しく、怖気が走る重みをもっている。漏れ出た念が蛇のように青年の手首にまとわりついた。骨の軋む音が彼女の妄執を思い知らすかのようだ。

「現に死にかけていたぞ。生命力を吸われて体調は悪くなっていく一方だったし、隙あらばすぐにあの女性は引きずりこもうとするしな。しかも他人まで巻きこんで」
「夢にでてきたときは流石に焦ったよ。悪いな、そっちに対応任せちゃって」
「別にいいって。お互い様だろ。俺も結局夢では取り逃がして、女性の相手お前に任せちゃったしさ」

彼は小さく笑い、労うように肩を叩いて言った。

「俺はいつもの業務とそんなに変わらないからいいけど、お前のところは正体をばれずにあのお守りをとらなきゃいけない分俺よりも大変だろ。めちゃくちゃ嫌われていたし」
「しょうがないだろ。仕事が仕事だから姿を変えても、何となく生き物は避けたくなるんだよ。死の匂いを感じ取るからな」

俺だってだしたくてあんな可愛げのない声だしてないしとぶつくさ呟く青年に彼はまあまあととりなす。

「ほら最近ぶさかわブームとかあるしさ、お前の黒猫姿も一部からは人気でるかもよ?」
「中途半端な慰めとか下手な罵倒より傷つくぞ」

そっぽを向く青年に彼は曖昧な笑みを返した。

「まあ、でも」

彼はふいにちらりと夜空を見上げた。

「無事なんとかなってよかったな」

ほうと安堵の息を吐いて彼は言った。青年も深く頷く。

「ああ、流石にまだ寿命のきていない魂をあの世に引きずりこむのはことわりに反するからな、何としても阻止しなきゃいけなかったし。にしても恐ろしい執念だったけど」

困ったように頬をかいて彼は苦笑した。

「あっちに案内しようとしたんだけどさ、その間もずっと叫んでいたよ。こうちゃんは私と一緒にいくのよ、離してちょうだいってね。抵抗が強くて送るのに苦労した」
「まあ実の息子のようにかわいがっていたから気持ちはわかるけど、だからといってあの世にまで連れていくのはおかしいよな」

悪霊になった彼女は被害者の男性を自分の子と認識していたらしい。煮詰めすぎた想いは泥のように被害者を窒息させる。彼女の姿は心配のあまり腕の中にとどめようとして、子を押し潰す母親のようだったそうだ。

「まあそんなの作るくらいだしな」

指さされて青年は手元のお守りに視線を落とす。

「ああ、これな」

青年は小さな袋の結び目をほどき、中身をだした。細い髪にぐるぐる巻きにされた白い包み紙が転がり出る。髪の毛を振り払いながら包み紙をつまみ上げると茶色の乾燥した小豆程度の物体が落ちた。若い男がしげしげとそれを眺める。

「へその緒に自分の髪をつけて呪としたのか。髪は死んでも長く残るからまあ、定番っちゃあ定番だけど、へその緒ねえ。いったいどうやってあの男性のへその緒を持ち出したのかな」
「さあ? それよりもまずはちゃんと処理しようぜ」

青年が小さく何かを唱えるとお守りもその中身も青い炎に包まれ、灰すら残さず消えていった。

「あとはちゃんと帳簿の名前が元に戻ったかの確認だよな」

若い男がどこからともなく取り出した分厚い帳簿を差し出してくる。青年はそれを受け取ると迷うことなくあるページを開く。そこには『坂田幸助』と書かれた文字。その上に固まった血の鎖のようなものが巻きついていたが、それがサラサラと崩れ落ち、空気中に消えていった。

――こうちゃんは私のものなのに

か細いが、並々ならぬ怨嗟がこもった声が聞こえた気がした。青年は目を伏せる。

「……たとえあなたの子であったとしても、子の人生は親の人生ではないのにな」

夜の瞳に深い憐れみをたたえ、最後の想いの欠片さえ残さず燃やし尽くす。残ったのは自分の手首の青黒い痣だけだ。

「大丈夫?」
「ああ、完了した。何も問題なしだ。帰ろうぜ」

にっと笑うと、若い男もほっとした笑みを浮かべた。

「そっか、よかった。帰ったら報告書が待っているぜ。がんばろうな」

青年はうげーと露骨に顔をゆがませた。

「マジか。できるだけ少なく済むといいな」
「希望的観測はしないほうがいいんじゃない?」

並んで軽口をたたきながら二人は闇に溶けていく。
残ったのはカラカラと転がる空き缶一つだけ。

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