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最期はどうしたい?

何年か前、人生会議の小籔さんのポスターが話題になりポスター自体の発送を急遽取りやめた、というニュースを目にしました。

私個人の意見で言うと誤解を招く、配慮が欠けるという意見も分かりますが、実際に救急車で搬送されてきて『急変時はどこまで延命措置をしますか』などで大いに混乱した家族が揉めてしまうという場面を何度も目にしているだけに一つの表現としていいのではないかなと思いました。

今回はいくつかの本とともに、事前に人生の最期をどのように迎えたいかを考えるアドバンス・ケア・プランニングについてと終末期について色々思ったことなどを話そうと思います。

人生最期の時っていつ来るか予告されないことも多い

私自身は核家族&親族の少ない家庭でしたので『誰かの死』に触れたのは急性期病院で勤務を始めてからでした。
病院、特に集中治療室系にいると本当に『突然に日常が分断されて最期をどうするか決断が迫られる』という場面と、『選択した延命治療とその後』を目の当たりにします。

一般病棟(科で分かれますが)ではだんだん治療に反応しなくなったり、悪化と改善を繰り返して体力がなくなって自然と終末期に向かう方を目にしますが、見つかった時には相当悪くなっていたということもあります。

亡くなる前の兆候ってある程度経験がないと読めないし、持ち直すタイミングというものもあって難しいなと感じます。
私は看護師や医師ではないので、余計かもしれませんが一般の方にとってもっとそうだろうなぁと感じるのです。

もちろん医師から家族へ告知や病状説明がなされますので、その時にはじめて最期を意識するということもあるでしょう。
でもその時になって『本人の望む最期の在り方』が確認できなかったり、確認できても叶えられない状況ということは往々にしてあります。家族にとってその告知は突然やってくるように感じる場合もあると思います。

延命治療をどうしますかと問われる

最近では入院時に確認されるパターンもよく目にしますが、『急変時はどうしますか?』と本人や家族に確認がされます。そんなとき話し合いがしっかりと皆さんできているでしょうか?

病状が悪化した場合や今後の見込み等で延命について問われる場面で『しません』ということは見殺しにするという認識や責任を感じてしまうご家族も多いです。

もちろん延命自体が意味をなさない場合は、説明をして見守るという方針を取るなど対応がなされます。

私は病院の現場にいるため、イメージが湧きやすいのですが普段病院に受診はすれど入院までしない・実際に延命をした場合/しなかったの経過を見ていない一般人がどこまでイメージできるかというと相当厳しい気がします。
土壇場で『苦しそうだからやはり治療をしてほしい』となる可能性はあります。

老衰で口から食べられなくなっている場合など自然経過ではありますが、何も点滴も栄養剤の投与もしないという選択をするということに躊躇いを感じると思います。

現実はドラマのようにはいきません。
救命の現場でも事実の積み重ねでデータは出ています。医療ドラマのように倒れて劇的に改善はできるケースとできないケースがあるのが現実です。

また病院は治療の場であるので、治療行為をしない場合は次の受け皿を探していくことになります。その際にもどこまで対応をするかということは受け皿の決定にも必要です。

元気なうちに話し合う、それがアドバンス・ケア・プランニング

このように突然、もしくは緩やかに訪れる最期について事前に医療者も含めしっかり話し合い、変化に応じて繰り返し本人の意思決定を支援していく取り組みを『アドバンス・ケア・プランニング』と言います。
厚生労働省は『人生会議』と称して広めていこうと取り組んでいます。

冒頭の小籔さんのポスターもこれを広めていくための一環として作成されたものです。救急現場での一幕を切り取った形での表現でとてもわかりやすいとは思います。

私は勤務病院での勉強会で実際に医師がご自身の親に対して行ったというケースを拝見しました。その時に感じたのは医師だからこその視点もあり、納得できる形を模索するにはある程度対話を繰り返す必要があるなと思いました。

実際に私自身はどうかというと、親と話し合えているかと言われればできていません。親自身がその現場をイメージできていないこともありますし、自分は大丈夫だと思っている節はあります。何度か話を切り出しますが、笑って延命治療はせんから!で終了です。そこまでの道のりなども大事なのですが...

やはり医療者などの第三者を含め対話から望む最期を迎えるためのすり合わせを行わないと難しいかなと思ったり...どうしても親子だと難しい面があると感じてしまいます。

ただ実際にこれを行うには医療者も含めてとなるとどこで?となってしまいます。いつもかかっている医師とどこまで話し合えているか、忙しい開業医の診察時間でしっかり話し合うのは困難だと思います。
在宅診療を行なっている医師なのか、それとも地域のケアカンファレンスなのか...まだまだ仕組みとしてきちんとできがっていないように思います。

ただ一つ言えることとしてはこういうものがあり、日頃から話し合う機会をどこかで持つことが咄嗟に何かあった時に助けになると思うのです。法事とかお正月とかそんな機会に話ができるといいなと思います。どんどんこの取り組みが広がって欲しいなぁと思います。

参考にしてほしい本など

先にお話しした最期の時の看取りや老衰で口から食べられなくなった時にどうするかを考えるのに一度読んでおいてほしい本をいくつか取り上げたいと思います。

在宅で夫を看取った看護師でもある筆者の経験談と死ぬまでの臨床的な経過などをわかりやすく書いています。宗教の本?と思うかもしてませんが、終末期の心を支える手段の一つとして仏教的な関わりなどを書いています。
アメリカですと集中治療室に牧師がやってきてくれるのですが私としてはいい仕組みだと感じました。

口から食べられなくなって強制栄養をどうするかという決断を迫られた時に一度目にしておくと参考になるかなという書籍。
私の亡くなった祖母も栄養投与をしていたのですが『あの選択肢は本人の望みであったか?』と今でも感じるところはあります。
もちろん投与を否定するわけではありませんが、色々私は現場で見ている分医療者にも読んでほしいと感じます。

終末期・緩和ケアに携わるとこの問題に直面します。こちらは緩和ケアの現場で働く医師の視点で書かれた書籍です。安楽死については慎重な議論が必要ではありますが、限界に立たされている患者さんの求める気持ちもとてもわかります。

こちらは医療者向けの本になります。高齢者が入院患者でかなり増えているなか、繰り返し肺炎で入院してくる患者さんに悩むことは多いです。治療にあたっての新しい道標となる一冊です。

2014年に提言された救急・集中治療における終末期医療に関するガイドラインとなります。
医療者向けになります。延命治療について3つの学会が合同で発表したものです。
これ以外にも高齢者に対してのエンド・オブ・ライフなどの提言が日本老年医学会からもされています。高齢者が多い日本での医療のあり方は常にこうして問われてきています。

まずは小さな話し合いから

介護の問題もそうですが突然こういう問題はやってきます。若い人でももちろん起こり得ます。
その時に悔いのない選択が完全にできることはないとは思いますが、より納得できる選択をしていくために、対話をするということは大切です。
選択を後から周囲の方の『こうした方が良かったんじゃないか』などの声で傷つく場合もあります。
周囲の人も良かれと思っても今一度その言葉は誰のためなのかを考えてほしいなと思います。

今回は重いテーマの話になりましたが勉強会などがきっかけで思ったことをまとめてみました。
私の意見や学んだことが中心ですので『これは違うと思う』とのご意見もあるかと思います。一意見としてご容赦ください。
皆さんの考えるきっかけになれば幸いです。

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