J.K.ロウリング問題についての私のスタンス

J.K.ロウリングの問題について、『ハリー・ポッター』コンテンツをYouTubeにアップしている者として言いたいことはいろいろあったが、これまで思考をまとめる気力がなかなか出なかった。私はこの冬、としまえん跡地にできたスタジオツアーに行くことになり、思うところがあってこの記事を書いてみようと思った。

ロウリングの言動を見ていると胸が痛む。ほとんどの人が知っていることと思うが、ロウリングはここ最近トランス差別的な言動を繰り返し、いわゆる「キャンセル」されている状況にある。正直に言えば、私がロウリングの発言を聞いて心苦しく思うのは、トランス当事者の気持ちになって辛いというよりも、ファンとして手放しに支持できない存在になってしまったことの苦痛のほうが大きい。自分本位に聞こえるかもしれないが、私のような(少なくともこの文脈において)マジョリティに属する人間にトランス当事者の気持ちが分かるといえばむしろ嘘になるし、分かると主張することはおこがましいことのように思える(もちろん、当事者の立場に立って考えるのを放棄しているわけではないのはわかって欲しいが)。弱者のために立ちあがる正義の味方を気取るつもりはない。そもそも、私はこの手の問題について不勉強だ。これは責任逃れをしようとして言っているのではない。だが、状況を見るに、本件はロウリングが一度や二度炎上ツイートをした程度の話ではなく、ロウリングが完全に政治的なアクティヴィストと化してしまっていることは分かる。そのアクティヴィズムの思想に同意できない部分があるのである。

『ハリー・ポッター』は、私の子供時代の大きな部分を占めていた。小学生から中学生くらいのときにかけては、『ハリー・ポッター』の世界に生きていたと言っても過言ではない。フランスに暮らしていた短い期間のうちに『アズカバンの囚人』の映画を観て大いにハマり、帰国後『炎のゴブレット』以降は原作と映画をリアルタイムで追っていた。中高の部活では美術部に入り、『ハリー・ポッター』風の杖を何本も制作した。私をファンタジーの世界に引き込み、ファンタジーの世界の住人にしたのは、『ハリー・ポッター』だった。

だから、ロウリングがいなければ私はファンタジーをここまで好きになっておらず、より直接の影響を受けているJ.R.R.トールキンの『指輪物語』にも出会わず、したがって人工世界フィラクスナーレは存在しなかったかもしれず、私の人工世界・言語作者としての人生は存在しなかったかもしれないのである。これは私にとって動かしがたい事実である。

そのロウリングが今持っている政治的思想を、私は否定することができるだろうか。

普通に考えれば、否定しなければならない。トランスジェンダーの人の人権は当然保障されなければならず、それはすべての人種の人権が保障されなければならないのと同じくらい当たり前のことだ。今のロウリングの思想は部分的ではあれそれに反していると思われる。作品に罪はないだろうという人もいるかも知れないが、ロウリングが作品を出し続け、それが売れることによって利益を出し続けているのだから、そうは断言できないと思う。私の一部が『ハリー・ポッター』でできていなかったならば、私はもっと客観的な立場からロウリングの思想を冷静に批判し、少なくともなんの関わりも持たないよう努めることができただろう。

しかし、そう簡単ではないのだ。ロウリングをキャンセルするとすれば、二度と『ハリー・ポッター』や『ファンタスティック・ビースト』を楽しんではいけないことになるのか? 今持っている大量のハリポタグッズはどうすればいいのか? 中高時代の杖を作るための努力は何だったのか? USJのハリポタエリアにもスタジオツアーにも二度と行ってはいけないのか? 家族や友達とハリポタを体験して楽しかった記憶は? 何よりも、『ハリー・ポッター』からファンタジーに入ってファンタジーをキャリアにしようとしている私のアイデンティティはどうすればいいのか? そして、私のつくる作品はどうなのか?

このような問題を(元)ファンに抱えさせるような言動を繰り返すロウリングの罪は重い。それは多くの人が分かってくれることだろう。問題は、それでも『ハリー・ポッター』を体験し、『ホグワーツ・レガシー』をプレイし、『呪いの子』の演劇を観、スタジオツアーに行くのをやめられない私も同罪だろうかということだ。

Death of the authorという概念がある。ものすごく単純化して言えば、創作において、作者と作品は切り離すべきであるという考え方を指す言葉である。たしかに、過去に遡って問題のある思想を持っていた人物やその作品をことごとく「キャンセル」していると、ほとんど何も残らなくなるというのは事実かもしれない。だがロウリングの場合、先程述べたように、彼女は文字通り存命であり、我々が『ハリー・ポッター』を消費すればするほど彼女の益になるということもまた事実だ。この理由から、私はロウリングにdeath of the author を適用するのは無理があると感じている。

しかし結論としては、私は弱い人間なので、ロウリングの考えには同意しかねるが『ハリー・ポッター』を完全に否定することはできそうもないという、中途半端な立場しか取ることができない。私の生活から『ハリー・ポッター』を消し去ることははっきり言ってできない。だから、私はロウリングが亡くなるまで(おそらく亡くなってからも)、ずっと『ハリー・ポッター』が好きである自分を責め続けて生きることになるだろう。そんなことをしても差別を受けている当事者のなんの役にも立てないだろうことは分かっている。私になにかひとつできることがあるとすれば、社会的正義について考えることを決してやめず、ロウリングに負けないファンタジー作品をつくり、それを通じて社会にポジティブな影響を広げていくことくらいかもしれない。ロウリングを反面教師として、また『ハリー・ポッター』から良い部分だけを学び、作家として成長していきたい。

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