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昔の話続き。

思い出は、芋づるのように次から次へと湧き上がってくる。NZへ来て最初の5年の田舎暮らしのこと。そしてシングルマザーとなり、シティーに移り、教育に携わった次の7年。そして現在の旦那に出会って、再び幼子の母となったこと。20代半ばから30代の全部、色が濃い。一つ一つの選択が今現在につながっている。思い出していると、まるで映画を見ているような感覚になる。甘くて苦い、そしてとても美しい景色の中の話。

その時代に流行っていた”自分探し”というのだろう、20代頭の頃の私は、やたらといろんな人に出会いに出かけたのを思い出す。アースガーデンに関わったり、面白いレイブに行ったり、ツリーハウス作るの手伝ったり、ガイアシンフォニーが大好きで、星野道夫に憧れて、アラスカでヘリコプターのパイロットになるにはどういう経路があるのだろう、とハワイのパイロット学校のウェブサイトを、派遣先のPCから調べたりしていた22の私。今思うと気恥ずかしさで笑ってしまう。

代官山のBe Good Cafeで、シュタイナーとパーマカルチャーの存在を知り、新木場にあった座禅道場に住みながら、藤野のパーマカルチャーセンタージャパンに通ったのは次の年。パーマカルチャーデザインコースを終えた後、もっと実践されている現場をみたい、と思って渡ったNZだった。今は亡くなったジョー ポライシャーのレインボーバレーファームでWWOOFした後、東京で出会った友人のツテで、南島の小さな町でパーマカルチャーガーデンを作る、と言うプロジェクトに参加した。ヒッピーにいっぱい出会った。何事も思い通りに進まない、でもほっとくとなんとなく思い通りになってくる、というNZのリズムを苦い思いを何度もしながら学んだ。

同じ町で30近く年の離れた前夫と出会い、親の反対を押し切って結婚、長女を出産。それから4年、丘の上の、とても美しい原生林に囲まれた家で娘を育てた。電気も水道もなかったので、基本は焚き火の上で料理をし、地面の上で皿を洗った。水は屋根から落ちてくる雨水をバスタブにためたものを、すくいながら使うスタイル。雨が降ると、赤ん坊の長女をベイビーバックパックに入れてレインカバーをかけ、それを背負って皿洗いをした。辛いな、と思うと辛くなるので、飲める水が空から降ってくるってありがたいな、と思うようにしていた。

電気がないから、日が落ちると真っ暗になるので、冬の間は1日が本当に短かった。朝8時半から夕方5時の間で、起床、薪割り、焚き火、お湯を沸かし、朝食を作り、残り火でパンを焼き、薪を集め、焼きたてのパンで昼食、庭仕事、夕食の支度、6時前には布団に入る。そんな風に1日ははさっさと過ぎてゆく。が、夜がとても長い。でも、暗いし、寒いしで布団に入るのが結局一番だった。教職を取るためにIELTS(NZ公式の英語のテスト)の勉強をしなければいけない時は、ロウソクを4本立て、それでも暗いので鏡をそのロウソクの後ろに立てて光量を倍増していた。東京に帰って大学時代の友人にそれを話したら、「なんだその知恵は!」と半分呆れて笑われた。

そんな日々の中で、一番、心身ともに私を支えてくれたのは、やっぱり自然だった。日が登ることのありがたさを実感するのに電気のない場所に住む以上にいい経験はない。本当に、ヨガのアーサナではないが太陽礼拝したくなった。昔の人が太陽を神としたその感情がめちゃくちゃわかる。太陽は光をくれる。太陽は暖かさをくれる。この二つがあるとないでは私の日々の生活は、心地よさが全く違う。いい天気で日が窓から入ってくると、心から「ありがたいいいい」っと思ったものだ。だからといって例えば2週間雨が降らないと、私たちの生活水はかなり乏しくなった。だから久々に降る雨などは、もう小躍りして喜んだ。西海岸の水の循環のいい地形だったのもあるだろうけど、振り立ての雨水は格別に美味しかった。

暖房もなかったので、日中は太陽が光と暖かさを、木々が薪という形で燃料と暖かさを、そして雨が水を与えてくれた。庭で野菜を育て、肉は前夫が狩った鹿肉がたまにあるくらいで後は菜食だった。

自然があれば生きていける。何度も、心の奥底からどっしーんと暖かい確信を覚えた。その感覚とともに生きる自信みたいなものがぐぐっと湧きあがってくる。

その確信と感覚は今でも私の土台である。

これは当時の台所。雨が降るともちろん雨漏る渋いブッシュキッチンである。


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