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“森と水の間” 紀行譚 支笏湖

夜が明けるには、しばらく時間があった。
到着の余韻がまだ残っていたからだろうか、
客室が今の自身の居場所でないように感じ、
私は暗い支笏湖を一人散策していた。

氷点下に届きそうな空気は張り詰めていて、北極星を見上げている自身の視界に、白い息が過ぎる。風は吹かず、音も聞こえない、目の前の湖はすべてを吸い込んでいるようで、永遠のような時間の中、温もりとは無縁な闇だけがその場に在った。

支笏湖は、洞爺湖や周辺の火山群とともに国立公園に指定されているカルデラ湖で、水深が深いことにより湖面が凍結することは少なく、日本最北の不凍湖とされている。その高い透明度に吸い寄せられ、夏は道民で賑わうようだが、冬の早朝は生き物の気配を全く感じない。土の表面を覆う霜が、月明かりに照らされぼんやりと白く浮かび、その上をジャリジャリと歩く自分の足音は、どこか乾いている。

夜の終わりを初めに告げたのは、早起きのシジュウカラがツツピーツツピーと鳴く声であった。空は徐々に青みがかり、辺りを囲む白樺の森の影は細かい枝まではっきり見せ、流れ込む川には薄いレースカーテンのように霧がかかっている。コンコンコンという音に見上げると、キツツキだろうか、本当に小さな鳥が木を懸命に突く様子が見え、エゾリスは木の枝から枝へ飛び移る。朝日は山の裾野と雲を赤く照らし、そんな様子を写す支笏湖もところどころ赤く染まっていた。

リスが食べ残した、いびつなモミの実が落ちていた。これを「森のエビフライ」というようで、ニオイを嗅ぐと確かに、獣臭がかすかに残っている。まだ食べられそうなカサはたくさん残っているが、お腹いっぱいになったのだろうか。エビフライの形には惜しくも届いていない。もし食べている途中であったのならばリスに申し訳ないのだが、私は自分のお土産にと、その食べ残しをポケットに忍ばせた。

支笏湖を後にし、ニセコに車で向かう道は標高が高く、雪山は重なり、雪原が広がっていた。所々にサイロが立っていて、その横を体の大きなキタキツネがネズミを咥えて通り過ぎて行く。

後部座席に座りながら、支笏湖に向かう道中で出会ったエゾシカのことを考えていた。人間の倍ほどもありそうなその巨体は、おそらく車と衝突したのだろう、反対車線の真ん中に座り込んでいる。幹の細い白樺が立ち並ぶ森の中、月の光が微かに照らすその場に座り、シカは空を仰ぎ見ていた。

帰り道、その場にシカはいなかった。
あの時、空を仰ぎ見ながらシカは何を想っていたのだろう。運命を迎え入れていたのか、この世の未練を思っていたのか、私にはわからない。ただ、動物としての純粋な美しさがそこにあった。

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