悟りと欲は相反する

今更noteに投稿する気はないと思ったのだが、自分にとって大きな気づきがあったので書くことにする。それは「悟り」について。僕は出家したわけでも、本を読んでマインドフルネスなどを実践したわけでもない。しかしここ数週間で人生観は明らかに変わった。これは僕が悟りを開いたからだと思えてならない。ちなみに悟りを実践から会得しようとしている人もいるようだが、それはあまりにも無意味といえよう。そもそも「悟りたい」という欲を持ってることからして悟りとは相反する。これは眠れない人が寝たいと思い続けてかえって眠れなくなるのと同じ。結局ノウハウだけ伝えられてそれを実践したところで大して成果は出ない。修行を積んだという坊さんだって、性犯罪などで捕まるような人は割といる。

まず自分自身に起こったこととしてはマッチングアプリに興味がなくなったということがある。今まで半ば依存しているような状態が嘘のように、それも急に興味が失せたのだ。今までにアプリで彼女を作り性行為をしたことはあるのだが、それをズルズルと続けていても中々うまくいかず、いよいよ飽きてしまった。ここに至ったのは自分の実体験だけではなく、同じくアプリをやっている色々な人とやり取りをして気づいた経験からでもある。イケメンで若い頃に遊びまくり結婚できたのに、30過ぎで離婚してアプリで女を探しているという人とやり取りをした。彼は「若い頃にもっと遊んでおけばよかった」と言っていた。だが僕としては逆だと思う。むしろ遊びすぎたから欲求が膨らんで苦しんでいるのではないかと。それをわざわざ彼には伝えなかったが、やはり欲望というのは雪だるま式に大きくなっていくものなのだなと知った。

だからこそ僕は悟りを開くためには煩悩にまみれた最低限の実体験と、そして同じようなことについての他者のエピソードを知ることが不可欠だと思うのだ。教義だけ読んでそれを実践した気になるのはオウム信者だってできる。経験もなしにビジネス書だけ読んでも起業はできないのと同じ。自分も他人も理解しない人が悟りを開くことなど到底できないと思う。

あとは生まれ持った遺伝要素もあると思う。うちの両親はもちろん結婚して僕を生んだわけだが、それ以外で実生活で欲に貪欲な感じは全くなかった。母はまだ存命だが、僕に対してあれしろこれしろとは言わない。きっと毒親だとエリートと結婚しろ子供つくれなどといった要求も強いのだろう。それは可哀想ではあるが、酷な話その人自身もそういう親の要素を受け継いでいるので、自分も親の立場になれば子供に対して強い要求をするであろうということは想像にかたくない。生まれ持った要素を受け入れるというのも悟りを開くには重要であろう。

悟りについて調べてみると幸福を得られるといったものが見受けられるが、僕自身には全く当てはまらず、幸せでも不幸でもない安定した毎日を過ごしているという感じだ。「精神の社会主義」とでも形容するとわかりやすいかもしれない。大きな幸せもなければ絶望するほどの不幸もない。これが幸福といえるかどうかは人それぞれだと思う。ただ幸福を追求しているという時点で、それは欲を求めているといえる。要するに悟りとは真逆をいっているのであって、全く意味のない行動だということは伝えておきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?