悟りと少欲知足

悟りは禁欲や修行によるものではなく、むしろあらゆる欲望を経た結果として至るのではないかという話。釈迦も富裕層の家に生まれて所帯を持ち、おそらく欲望的には満たされていた生活を送っていたはず。しかし物事には必ず飽きが来るわけで、自ずと俗世間から離れていった結果として悟れたのではないだろうか。逆に貧乏な童貞といった欲望を叶えることすらままならないような人は満たされて飽きたという経験に乏しいため、悟りをも貪欲に追い求めてしまうと考える。要するにあらゆる欲望を満たした経験がないと悟れないと思うのだ。

加えて生まれ持った強欲さというものも関係してくると思う。もし釈迦が強欲な人間として生まれていたら、女を何人も囲ったり他人の財産を自分のものにして自分中心に生き、仏教というものは生まれなかっただろう。端的にいうと物事に飽きにくい人たち。そういう人でも生きすぎた修行の結果、幻覚や幻聴を見聞きして「これが悟りか!」という精神錯乱状態に陥ることである種の悟りを実感することはできるのかもしれない。例えばオウム真理教では信者にヘッドギアやLSDを与えて強引に悟りへと導かせていたと聞く。強欲な人間というのはそれなりの刺激がないと実感できないので、そうするしかないのだろう。

しかし悟りというのはそんな大それたものではなく、そして開こうと思って開けるものでもない。仏教的にいえば少欲知足、つまり少しの欲で満足できるという素質を持った人がこの世のあらゆる欲望に満たされて飽きが来た結果、自ずと開けるものだと考えている。

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