悟りの気づき

初めにことわっておくと、僕は仏教の教えの実践によって悟りを開いたわけではない。故に「悟りの境地」と表現するのが適切と思われるが、ここでは便宜上「悟り」とする。また何か超能力が開花したという話でも全くない。

悟りを実感したのは今から1〜2週間前だったと記憶している。急に覚醒があったわけではないのだが、徐々にというよりはもう少し早い感じがした。ただし、それ以前から不眠気味や食欲低下などの変化なり予兆はあった。はっきり気がついたのは人間関係に興味が失せたという点。漠然と出会いを求めてマッチングアプリをやったりしていて、今まで半ば依存していたのが嘘のように飽きてしまった。また街を歩いていて、例えば綺麗な女性を見てもムラムラしなくなった。美醜は明確に判断できるのだが、それらに深追いしなくなったという感じだろうか。一応性欲はあるので一人で処理しているのだが、中々興奮できなくて困っている。もはや排泄行為といった感じだ。だから好き嫌いも生理的には感じてられても、そこまで興味が湧かないのですぐに忘れてしまう。

興味の希薄さは人間関係だけにとどまらず、ニュースや自分自身のことにも及んでいる。なぜ自分とはほぼ無関係の物事に対して憤る人が多いのだろう?と、共感性が薄くなってしまった。もちろん感情はあるのだが、自分のエネルギーを無関係なところで消耗して疲れないのか?と疑問に思う。あとは自分の過去のことが漠然としてきて、思い出してもまるで他人の経験のように感じるようになった。未来の自分に対してもあまり興味がないので貯金は最低限だ。変な話、孤独死でも良いと思っている。これはマイナスな意味ではなく、人もいつか死ぬという事実と対峙した時、どういう死に方であれ苦しむのだろうし、僕は一人でいるのが好きだからというのが理由。こうしたあらゆる意欲の低下はうつ病とも判断できるだろう。実際僕はうつ病と診断されているので間違ってはいないのだろうが、特有の絶望感がほとんどないのだ。

僕が思うに、悟りは開こうと思って開けるものではないのではないか。悟りを開きたいというのもある意味欲望なので矛盾してしまう。またそれなりの素質も必要だと考える。もし僕が貧乏な家にとんでもないブサイクで生まれていたとしたら、運が味方をしない限りはあらゆる欲望を満たせないどころか人生経験すら乏しい人間になっていただろう。人生経験なくして本だけ読んでも悟りは開けないと思う。もちろん悟りを開くことが人生の目的ではないし、欲を追求し続ける人生も悪くはない。この資本主義社会は欲で成り立っているわけで、むしろそういう境遇のほうが生きやすい部分はあったのかもしれない。

このように悟りを開けて良かったことは特に見当たらない。良くも悪くもないというのが実感だ。

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