『Fukushima 50』における「表現の主体」について

 以下は、産経ニュースの記事〈「Fukushima50(フクシマフィフティ)」観客絶賛、評論家酷評…原発が背負った「宿命」表出〉(https://special.sankei.com/a/entertainment/article/20200312/0001.html)に関連する取材を受けた際に、担当記者氏に送ったメールの内容である。
 「キネマ旬報」の星取レビュー欄に寄稿した『Fukushima 50』評を補うものとして、ここに掲載する。
 尚、私信にあたる前後の挨拶文を削除した以外は、細かな誤字脱字を訂正するにとどめた。商業媒体への発表を前提として書いた文章ではないため、乱文乱筆はご容赦いただきたい。

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 『Fukushima 50』について、私個人がもっとも強く感じた問題点は、この映画の「主体」はどこにあるのか、という点です。
 といいますのも、このかん、私は「福島」を題材とする映画(フィクション、ドキュメンタリー問わず)をいくつか観てきており、完成度はさまざまですが、いずれの作品も、福島を「撮る」「描く」「物語る」作り手の主体の問答にこそ、多くの時間と労力を割いていると感じたからです。

 たとえば、まもなく(3月21日~)単館公開される島田隆一監督のドキュメンタリー映画『春を告げる町』(一応、私も編集協力としてクレジットされています。ラッシュを観てアドバイスをしただけですが)では、被災地である福島県双葉郡広野町の高校生たちが、「復興とは何か」をテーマに演劇作品をつくりあげる過程がとらえられていますが、その様子を「撮る」、そして映画として構成する(「描く」「物語る」)作り手の姿勢に、私たちはいま「福島」とどう向き合うべきか、という作り手の主体がはっきり表れています。

 一方、『Fukushima 50』の場合はどうでしょうか。
 この映画は、海外メディアが、福島第一原発にとどまった職員たちへの敬意を込めて付した呼称を、そのままタイトルに冠しています。
 言うなれば、「他者」による承認を、そのまま映画の「主体」に置き換えているわけです。
 もちろん、未曽有の事故に際して、生命の危機に直面しながら、力を尽くした人々に称賛を送ることに疑義を挟むつもりはありません。しかし、彼らの称揚をこそ映画の主題とするならば、作り手は、「他者」による承認を出発点とするのではなく、「撮る」「描く」「物語る」対象として、まず自身の表現の主体を明確にすべきではないか、と私は考えます。

 この映画は、そうした主体を欠いているにもかかわらず、吉田所長(渡辺謙)や伊崎(伊沢)当直長(佐藤浩市)といった個人の心情には、どこまでも共感的、感傷的に寄り添おうとしているように見えます。
 そのような描き方をするならば、作り手はまず表現の主体を明確に打ち出す必要がありますし、そうではなくニュートラルな視点で描こうとするならば、全体の演出はもっと抑制的であるべきではないかと思います。

 共感的、感傷的な演出の例はいくらでも挙げられますが、私がもっとも気になったのは、伊崎の娘・遥香(吉岡里帆)や、緊急対策室職員の浅野真理(安田成美)といった女性たちにかかわる描写です。
 遥香の結婚をめぐる父娘の確執のエピソードは非常に紋切型ですが、あの唐突な回想シーンで示される伊崎の抑圧的な父親ぶりが、その後、次々と巻き起こる大事に取り紛れるかたちで、いつのまにか和解へとなだれ込む展開には強い違和感をおぼえました。
 浅野の役柄についてはさらに紋切型が目に余り、彼女は劇中に登場するほとんど唯一の女性原発職員でありながら、便所掃除に精を出し(もちろんそれじたいは大切な仕事ですが)、吉田所長を慰める以上の役割を与えられていません。
 厳しい言い方になりますが、大事に際して細かな点に気がつき、時には管理職を慰める「優しく包容力のある女性」という、古い価値観の男性がいかにも好みそうな女性キャラクターのステレオタイプをなぞっていて、この映画の人物演出の貧しさを象徴しているように感じました。
 この点は昨年公開され、賛否両論を呼んだ『新聞記者』における人物描写の問題点(とりわけ一部の女性登場人物をめぐる描写の画一性)にも共通するものです。

 官邸側の描き方についても非常な違和感をおぼえます。
 勘違いしないでいただきたいのですが、映画とはそれこそ主体的な表現なので、実在の人物であろうが架空の人物であろうが、どのような人物解釈があってもよいのです。
 しかし、それならば、首相以下官邸側の人間には、はっきりと名前を付して個人を特定すべきではなかったかと思います。
 若松節朗監督は、そこに対して配慮された旨、インタビューでも発言されていますが、ここで重要視されるべきは、当時の政府に対する「配慮」ではなく、作り手側の主体的責任であるはずで、特定の個人から名前を剥奪するこの映画の演出・作劇は、私には逃げを打っているようにしか映りませんでした。
 まして、この映画は生命をかけて大事に挑んだ「個人」を讃えるドラマであり、一方の個人から固有名を奪い、存在を抽象化するのは、演出として不徹底であると言わざるをえません。
 一部の人々が指摘する、菅政権に対する事実の歪曲といった問題ではなく、どのような描き方をしてもよいので、個人は特定すべきでした。

 そして、主体の決裂というこの映画の問題点は、ラストシーンの吉田所長の手紙のことばをめぐる扱いに集約されます。
 吉田所長は伊崎当直長に宛てた手紙のなかで「俺たちは自然の力を甘く見ていた」と述懐しますが、この場合の「俺(たち)」とはいったい誰のことを指しているのでしょうか。
 吉田所長と伊崎当直長のことでしょうか?
 福島第一原発の職員たちのことでしょうか?
 東京電力(映画のなかの東都電力)という企業でしょうか?
 それとも日本人全員でしょうか?

 そうした主体を曖昧にしているため、この映画の最終的なメッセージともとれる吉田所長のことばは、なにかを隠蔽するための口実のように聞こえてしまいます。
 これは(少なくともこの映画においては)実際の吉田所長ご本人の問題ではなく、作り手の表現者としての姿勢の問題です。
 吉田所長のことばをどう受け取め、作品のなかに落とし込むのか、という表現の主体が欠落しているため、伝えるべきメッセージを取りこぼしているのです。

 いままで私が指摘してきたような主体の欠落/決裂という問題について、若松監督をはじめとする作り手のみなさんは、もしかすると、「意図的にそうすることで、ニュートラルな作品に仕立てるよう心がけた」と言われるのかもしれません。
 では、実際、この映画はどのように受け止められているでしょうか。
 ほかならぬ原作者・門田隆将氏は、「“左翼界隈”の人達が(この映画に対して)罵声を浴びせている。日本人が余程嫌いなんだろう」などとツイートし、この映画が呼びおこしうる感情をみずから体現しておられます。
 私がこの映画を「動揺や怒りや対立を呼びおこす」作品と評したのは、そういうことです。

2020年3月9日
佐野亨

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