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令和日本紀行 -9: 三河国(新城市周辺)の旅

今まで訪れた日本国内の地域の地理・歴史について、記録しています。第9回は、NHK大河ドラマ「どうする家康」の舞台の三河国のうち、長篠・設楽原の戦いが行われた新城市周辺について書きます。

個人的な見解だが、愛知県民は、名古屋人と三河人に大別できると思う。自分で尾張出身という人はほぼいないが、自己紹介の時、三河の人間と自称した人がいた。例えば「私、豊橋出身、三河者です」みたいな。
私が中部経済産業局(名古屋城の近く)に勤務していた頃、名古屋在住の方から「うちの嫁は三河の出だで・・」と聞くことがあった。豊橋や蒲郡など東三河から通勤している方々も多かったが、同郷意識が強かったと思う。

三河国は、東海道に属し、三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記していた。平安時代には、藤原氏の荘園が置かれていたが、清和源氏の影響力が増した。鎌倉幕府草創期には、源範頼(蒲冠者)が三河守として、この地域を治めた。

室町時代に入り、仁木氏、一色氏、細川氏等が守護になるが、戦国期に入り多くの土豪(国人)に分かれ、その中から松平氏、戸田氏等が台頭してくる。
松平氏は、主に西三河で三州十八松平家として栄えるが、今川氏及び織田氏による侵攻に苦しみ、また宗家争いの内紛が絶えなかった。
三河国を統一したのは、織田信長と同盟した松平家のプリンス、徳川信康。今川家を滅ぼした武田信玄との勢力争いは、三方ケ原の戦いを経て、奥三河及び長篠城(現新城市)が最前線となる。ロシアとウクライナの戦争におけるバフムト地域のように。
そして、1575年(天正3年)6月28日、運命の長篠・設楽原の戦いが起きた。

一昨日、休暇をとって、青春18きっぷを使って、この地を訪れた。東海道線から豊橋駅乗り換えの飯田線は、豊川稲荷を訪問して以来の2回目の経験だ。
三河東郷駅は無人駅。自動ドアではなく、通学中の高校生にボタンを押してもらい下車したら、ホームにてJR東海の車掌さんから呼び止められた。青春18きっぷを見せながら、言葉を交わすが電車は停車したまま。これも奥三河の風景か。

三河東郷駅から徒歩で設楽原古戦場に向かう。途中に小高い丘で立ち止まる。「信玄塚」だ。徳川家康の指示により、地元民が1万人を超える戦死者を、火葬せずにそのまま埋葬した場所の一つらしい。「信玄塚」の名称は、武田家の衰退を意図したものと考えられる。

戦死者数は、武田軍1万人、織田・徳川連合軍5千人と言われる
古地図と古文書(新城市設楽原歴史資料館)
設楽原古戦の馬防柵

次に新城市設楽原歴史資料館を見学。長篠・設楽原の戦いの経緯、帰趨、戦後処理等に関する展示は、とてもわかりやすい。NHK「歴史探偵」でお馴染みの湯浅大司館長の姿もお見かけした。

同資料館から、連吾川(幅は数メートル)を渡り徒歩8分で、再現された馬防柵へ。当時の馬防柵は約2キロメートルの長大なものだったと言われており、織田軍が北側、徳川軍が南側を構築した。連吾川は北から南に流れており、南側の開けた場所から武田軍が突入してくることを予想し、徳川軍は地元の意地をみせるため、激線地を担当した。
馬防柵を突破してきたのは、予想通り、赤備えの山県騎馬隊であったが、徳川軍は本多忠勝他の奮戦で守り切り、当日の昼頃には連合軍の勝利で大勢が決した。
敗走する武田軍を徳川軍は数キロメートル追撃したが、そこまでとした。徳川家康は、更なる死傷者を出さないように自重した!

三河東郷駅に戻る途中に山県昌景公の墓に立ち寄った。長年、地元の方々が供養してきたのだろうか。惨劇を目の当たりにし、戦死者を埋葬し、そして荒れ果てた田畑の復元に臨んだ人々の心情は、テレビや映画で娯楽として楽しむ我々現代人にはわからない。

山県昌景公の墓

本当は、長篠城跡まで行き、鳥居強右衛門の活躍を偲びたかったが、飯田線の本数の制約もあり、設楽原しか観ることができなかった。なお、豊川より先はTOICAが使えないが、JR東海は、今後TOICA利用エリアを全線に拡大するという。
いずれ、豊橋、蒲郡、岡崎など三河の街々についても、デジタル化の状況を含めてレポートしたい。

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