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音楽家と歴史・社会 -11: シューマン夫妻(ロベルトとクララ)の活躍

主にクラシック音楽に係る歴史、社会等について、書いています。数回にわたって、ロベルト・シューマン(1810-1856)、クララ・シューマン(1819年-1896年)そしてヨハネス・ブラームス(1833年-1897年)の劇的な関係及びロマンチックな楽曲について書きます♪

ロマン派の楽曲は、一言でいえば、メロディを重視。和声の展開がある程度ルール化されてた古典派よりも、自由な音楽と言ってよいだろう。

ドイツのロマン派の草創期の巨匠は、フランツ・シューベルトであろうが、私は、ロベルト・シューマンとクララ・シューマン(旧姓ヴィーク)という世紀のカップル(9歳違い)から生まれた音楽を想起する。

ロベルト・シューマン(以下「ロベルト」)は、プロイセン国のツヴィッカウで出版業のアウグスト・シューマンの5人の子供の末子として生まれた。幼少期からピアノの才能に恵まれるとともに、文学好きの青年となり、ライプツィヒ大学の法学部に入学したが、法律の勉強には今ひとつ身が入らなかった。

1828年、ロベルトは、高名なピアノ教師のフリードリヒ・ヴィークとその愛娘クララと出会う。当時9歳のクララは、天才ピアニストの片鱗を見せていた。12歳の頃には彼女はヨーロッパ中で演奏し、フランツ・リストとも比較されるほど有名となった。

他方、フリードリヒを師匠としたロベルトは、1830年に師匠の自宅に住み込み、ピアニストとしての修練に勤しむが、師匠と上手くいかず、また、無理な練習がたたり、指を痛めてしまう。
失意のロベルトを、一つ屋根の下のクララが慰めたのかどうかは不明だが、まだ十代の彼女がロベルトの天賦の才に気づいていたことは確かだろう。

1838年にロベルトが完成した「幻想曲ハ長調ハ長調 作品17」は、二人が結婚を約束したにもかかわらず、父フリードリヒに猛反対されていた頃のピアノ曲だ。この美しく、透き通ったメロディは、クララに捧げられた愛と、叶えられない哀しさを表現したものと断定してよいだろう。
私自身は、同曲を聴きながら、奥泉光の小説「シューマンの指」を読み、音楽室での同曲演奏とプールでの殺人シーンの同期を想像するのが好きだ。

二人は、こともあろうに、師匠かつクララの父フリードリヒを裁判所に訴え大騒動となるが、1840年、遂に結婚した。フリードリヒによる反対の理由は定かではないが、シューマンがある不治の病に罹患していたことを知っていた可能性がある。皮膚に異常が生じても、数十年の無症候期を経て、悪化していく病気だ。
将来の悲しい運命を知ってか知らずか、クララは、8人の子供を産み育てながら、作曲に打ち込むロベルトを支える。

「ピアノ協奏曲イ短調作品54」は、1845年に完成され、1846年1月1日、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスで、クララによる独奏によって初演された。
私が初めて聴いたのは、1968年9月8日にTBS系列で放映された「ウルトラセブン」最終回あるいは再放送だろうか?
今は、YouTubeでKhatia Buniatishvili の演奏を聴きながら、執筆中だが。

二人三脚の音楽活動は長くは続かなかった。ロベルトは、重度の精神障害となり、1854年にライン川に入水。救助されたものの、ボン近郊の療養所で2年過ごし、46歳で死去。
その後、クララは、子ども達の養育費を稼ぐため?コンサート・ピアニストとして活躍し、76歳まで生きた。ユーロが登場するまでは、ドイツの100マルク紙幣には、彼女の肖像画が印刷されるなど、ドイツ史上最も有名な女性であった(メルケル以上)?

次回は、ヨハネス・ブラームスとシューマン夫妻の関係について書きたい♬

クララ・シューマン

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