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音楽家と歴史・社会 -31: ショパンとサンドの出会い(葬送ソナタ作曲の頃)

主にクラシック音楽に係る歴史、社会等について、書いています。
今回は、フレデリク・ショパンについて、「第20回パリでのショパンの活躍と『別れのワルツ」』」の続きとして、ジョルジュ・サンド(以下「サンド」)との関係に係る投稿です。平野啓一郎著「ショパンを嗜む」も参考にしました。

春分の日に、東京都北区でのアマチュア室内楽で聴いた唯一のピアノ独奏曲は、ショパンのピアノソナタ第2番変ロ短調だった。
1840年に出版された本曲は、有名な第3楽章から「葬送行進曲付」と呼ばれることがあるが、事実は真逆である。
このことを、歴史的に記述してみたい。

9. マリアとの別れとサンドとの出会い
1837年、マリア・ヴォジンスカとの婚約がそもそも無かったことにされたショパンは、失意の底にあった。
マリアの母からの健康管理・節制に関する度重なる要請を無視し、毎回午前様となる夜会に入り浸り、数ヶ月毎に重病になるショパンの自業自得ではあったのだが。

「第23回ショパンの伝記を書いたリストの想いとは?」で紹介した通り、1836年、ショパンは、フランツ・リストとマリー・ダグー夫人から、ペンネームをジョルジュ・サンドと称する女性作家を紹介されていた。彼女の本名はオーロール・デュパン(1804–1876年)であり、複雑な家系の出身でフェミニストの草分けとされている。
初対面で、ショパンは、自分より6歳年上で、2人の子持ち、男装の嗜好を持つサンドを女性として意識しなかったようだ。9歳年下の美少女マリアに恋していたので、当然であっただろう。
他方、サンドは、サロンでのショパンの演奏を聴き、彼の芸術を深く理解し、その虜になってしまう。

1837年、マリアとの結婚を諦めたショパンは、サンドからの積極的なアプローチに次第にほだされ、友人のヴォイチェフ・グジマワ伯爵(ポーランド貴族界のリーダー)に相談した。
なんとサンドも、共通の友人であるグジマワ伯爵に対して、32枚の便箋に長文を綴り、ショパンへの抑えられない恋慕と今後の対処について意見を伺った。サンドは、ショパンがマリアに振られたことを知らなかったのだ。    

サンドは、意を決して有名な恋文(短文)をショパンに送る。
「あなたを熱愛する人がいます。   ジョルジュ・サンド
私もよ、私もよ、私もよ!」
最後の繰り返しは、ショパンが多くの女性から愛されていることを暗喩し、サンドが独占するつもりではないと言いたかったのだろうか?

10. 葬送行進曲の作曲
この年、ショパンは、この曲を作った。世界中の誰もが知っている悲しいメロディは、1849年10月30日の彼自身の葬儀でも流された。
現代社会では、ゲームのバッドエンディング等で多用されており、時々お笑いのネタにもなる。好きな人への告白としてピアノを聴かせる場合、間違っても本曲を採用すべきではないだろう。
私自身は、中間部の優しい長調のメロディが好きで、高校の頃よく弾いたが、喜んでくれる友人はあまりいなかった。

さて、ショパンが、マリアとの失恋を弔うために本曲を書いたかどうかは不明である。また、1837年から1838年にかけて、パリのサロン等にて弾いた記録を、私は発見できていない。

11. マジョルカ島での滞在と「雨だれ」
1838年の夏には、ショパンとサンドの関係は、パリの社交界で周知の事実となっていた。
サンドの元愛人のフェリシテ・マルフィーユによるストーカー行為がエスカレートする中で、サンドはショパンの療養を兼ねて、スペイン領のマジョルカ島への長期旅行を企画する。
ショパンは、有名な旅行家かつ男色家のアストルフ•ド•キュスティヌ侯爵(1790-1857)からの誘いを避けるためにも、好都合であった。

1838年11月、ショパン、サンドと子供達(息子モーリスと娘ソランジュ)の四人は、馬車による過酷な長旅の末に、マジョルカ島に到着。山間のヴァルデモサの修道院の僧房と中庭を借り、翌年の2月まで滞在した。
温暖な地中海性気候の筈であったが、雨がよく降り、ショパンの体調は悪化し、吐血する。地元の医師の診断による病名は「結核」。
サンドは、それを信ぜず、ショパンに栄養をたっぷり摂らせて、献身的に看病した。
ショパンは、この時期に「24の前奏曲集作品28」を完成させた。その第15番変ニ長調は「雨だれ」と呼ばれており、雨の日に修道院の部屋に1人残されたショパンが書いた曲とされている。

12. ピアノソナタ第2番の完成
マジョルカ島での滞在は、ショパンの健康回復には繋がらなかったが、サンド一家との固い絆をもたらすとともに、彼の創作意欲を高めたようだ。
1839年以降、毎夏、サンドのノアンの別荘にて、ショパンは名曲を量産していく。

ノアンにあるジョルジュ・サンドの館

ピアノソナタ第2番は、2年前に作曲した葬送行進曲を第3楽章とし、かつ、その主題を基にして、他の楽章を構成した。古典的なソナタ形式ではない革新的なものとして、ロベルト・シューマンが激賛した。確かに、第4楽章は、調性が不明で現代音楽のように聞こえる。ショパンは、友人フォンタナに宛てた手紙の中で、以下の通り書いている。
・・・今、変ロ短調のソナタを書いているが、君が既に知っている行進曲が入るはずだ。つまり、アレグロが一つ、スケルツォ、行進曲、その後に左手が右手とユニゾンでおしゃべりをするのだ。・・・

このピアノソナタをサンドはどのように聴いたのだろうか?ショパンが弾く葬送行進曲の中間部では、マリアへの想いが聞こえたのだろうか?
平野啓一郎著「葬送」を熟読すれば、わかるようになるかもしれない。

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