見出し画像

令和日本紀行 -5: 大和国の旅(奈良編)

今まで訪れた日本国内の地域の地理・歴史について、記録しています。第5回は、GW特集として、奈良公園周辺の見所について書きます。

今、奈良公園にいる。大仏と鹿で有名な観光地であるが、今年のゴールデンウイークは、異常な位の人の出。外国人観光客は、欧米人、中国人、インド人その他世界各国から多くが来ており、様々な言語が飛び交っている。
実は「奈良」は、奈良県出身の私にとっても、貴重な観光地である。
私は、小学生から高校生の頃まで、大阪のベッドタウンの橿原市に家族で住んでいた。奈良盆地の南部の高田市、橿原市、桜井市等の住民にとって、「奈良」は、北部にある県庁所在地の奈良市であり、官庁街又は子供の遠足の場所を指す。
私が子供の頃の南部の住民は、近鉄の大阪線又は南大阪線で、大阪の職場に通勤し、週末は、難波などミナミに遊びに行った。「奈良」に行く用事は、年に数回しかなかった。

しかし「奈良」は偉大だ。もともとは、ヤマト政権の勢力圏のコアの大和国の北部が「奈良」であったが、710年に、藤原京(現橿原市)から平城京(現奈良市)に遷都された。大和朝廷は、唐の都の長安を真似た都市を建設した。
聖武天皇が東大寺に大仏を建設した理由は、相次ぐ天災、疫病に対して神仏に祈ったからである。特に天平7年(735)〜天平9年(737)の天然痘流行は、新興国家「日本」の大幅な人口減(▲25〜35%)をもたらした。現世界も同様のパンデミックを経験したばかりだ。

奈良公園で観光客が最初に目にするのは、興福寺の五重塔。興福寺は、藤原鎌足とその息子の藤原不比等ゆかりの寺院。藤原氏の氏寺として、奈良時代から室町時代までの間、強大な勢力を誇った。

興福寺の五重塔

奈良公園の鹿は、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が鹿島神宮から白鹿に乗って、この地に着き、春日大社に祀られたことを起源としている。

奈良公園の鹿
春日大社の拝殿

春日大社の宝物の多くは、藤原道長、頼通父子による莫大な寄進によるものだ。

春日大社の拝殿の傍に置かれた灯籠群

平安時代末期の源平争乱から鎌倉時代に至る時期には、奈良の僧たちが、仏像の制作に命をかけた。運慶、快慶が東大寺の仁王像を構築したことにより、奈良は仏教芸術のメッカとなった。
明治維新により、廃仏毀釈運動のため、寺院の仏像、宝物の多くが破壊されたが、フェノロサ、岡倉天心他の努力により、明治政府は、文化財保護の法律を作り、東京に次いで、奈良に国立博物館(なら博)を1895年4月、開館した(当時は帝国奈良博物館)。以下の写真は、なら博が撮影を許可してくれた金剛力士立像である。

奈良国立博物館「なら仏像館」に展示されている金剛力士立像(金峰山寺) 康成作
奈良国立博物館「なら仏像館」に展示されている金剛力士立像(金峰山寺) 康成作

最高級の文化財と歴史遺産を有する奈良の観光は、奈良県知事の荒井正吾氏による高級ホテル(JW Marriotなど)の半ば強引な誘致、なら歴史芸術文化村の実現、ムジークフェストなら等のイベント開催などが功を奏し、成果が出つつあるように思える。

瑜伽山園地(旧山口氏南都別邸庭園)に隣接する
隈研吾がデザインしたラグジュアリーホテル『ふふ奈良』
奈良公園・鷺池に浮かぶ檜皮葺き、八角堂形式の浮見堂

4月9日の奈良県知事選挙では、私の奈良県立畝傍高校の同期生の高市早苗氏(経済安全保障担当大臣)が推挙した平木省氏が敗北した。個人的には残念であったが、新たな県知事となる山下真氏には、是非、荒井知事が敷いた観光立県の路線を引き継いで頂きたい。
特に、観光、医療等のデジタル化を推進して、新しい文化産業都市のモデルを構築することを切望する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?