#444B|かきちらし

人の「できることの差」はなぜこれほどまで広いのか。成果を出している人もいない人も、人間的な能力にたいして違いはないとは言われるが、それにしたって、と思うことも多い。不思議なものだ。

最近ジャーニー5thの用意でけんすうさん周りの情報を見るのだが、スタートアップを成功させて生きているような人たちのスペックというか、頭の中ってのはいったいどうなっているのだろう。そしてそれはトレースできないのだろうか。これは単純な好奇心だ。

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しかしそのようなレベルで「日々、何かができるようになっていく習慣」を持つ人とそうでない人の差は、きっと私が人生をもう一周したくらいではおいつかない。こちらは自分と比較して感じる距離感にちょっと気持ちがくらくなる。

時間の過ごし方に正解はないとはいえ、「感情を崩したまま止まって過ぎる時間」というものだけは、あまりに何も生み出さないなと思う。そして、そうしている間にも世界は1歩1歩進んでいくのだ。

このような視点で「ふりかえって」も得るものはないのだけど、自分が心をくずして失った10年というのは本当にでかいなーとギリギリする。今日予定していた読書ができなかった、なんてレベルではもちろんない。

それでも、これも広い意味での「プランの脱線」と捉えて、今ここからできることを引き直していく。これはけっこうな悟りの境地だとも思うが、でもまあ病気になって10年すぎるってそこまでめずらしいことでもないし、今は健康体で人にも恵まれている。今日も平和に生きられている私の環境というのは最高にラッキーであり、間違いなく幸せだ。

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今AI関係の案件にも関わっているが、ある人が「すっげー簡単」と言う仕事にこちらは四苦八苦している。私は学校にもあまり行かなかったが、「簡単」という彼は一橋だ。やっぱ持ってるもんが違うなと。

そもそも、そんな領域に自分が噛んでいることがおかしく、私の正解はこの場での努力ではなくて活動領域を移す方だ。

重要なのは絶対値ではなくて相対的な値であるから、自分が強みだと思っているものも、関係する環境や比較される対象によって、凡庸にも逆に弱みにも変わる。活きるかどうかは常に環境と組み合わせで決まる。

自分の資質が強みになる=関係者への価値貢献になる場を探す視点を。

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なにができるかできないかで人の根本的な価値が変わることはない。それはわかっていても、能力不足で関わりたいところに関われないことはくやしいものだ。小さい頃、身長が足りなくて乗れなかったジェットコースターのようだ。

諦めるかがんばるか、どちらを選択してもOKという前提で、「これをやらなかったら死ぬ時に後悔するだろうか?」という問いがイエスでないものは全部やめてしまう方が健やかだ。

最後まで手放せないイエスには、身長が伸びるのを待ってチャレンジする。ただし、もう自分は身長が自然に伸びるようなことはない。

手持ちのカードを能動的に活かす一手、それを積み重ねながら、順算式でどこまでいけるんだろうということに、好奇心を躍動させて臨みたい。成果でなく成長と変化にフォーカスして歩けば、毎日は楽しい。

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