話す機会。

令和4年3月13日ゼロ円ハウス167日目。

アラームで目が覚める。夜更かしのせいで頭は少し重いが支障はなさそうだし自分のせいである。

Kさんが来るまで準備が恐らく間に合わない。起きるのが遅すぎた。コンビニに用があったのでそれも考慮したらギリギリ過ぎる。Kさんに連絡を入れて来るのを30分後ろ倒しにしてもらった。

準備を済ませてなんだかんだとやっていたら今度は逆に少し余裕が生まれてしまった。どうしようかなと思い、諦めていた部屋の掃除を少しだけしようと思った。掃き掃除と散らばった、主に衣類を寄せた。典型的な掃除出来無いヤツのやり方。整頓するのでは無くて集める。本当に自分は掃除が出来なくて苦手で嫌いだ。掃き掃除をし始めたらKさんが来てしまった。今日の自分は時間配分が下手くそすぎて自分に落胆した。

Kさんにナッツ類をこの間の麻婆豆腐のお返しだと言うことでいただいた。嬉しい限りである。

本日は割りとしっかりインタビュー的な感じで進んでいくようだ。とは言っても自分はインタビューなんかされたことは勿論無いからどんな雰囲気なのかも分からないけど。

とりあえず自分の部屋でインタビューが始まった。正直、結構話した自負があるのだが何を質問されたか、何を話したか覚えていない笑 本当に質問された事に沿った回答だったか?内容だったか?それすら疑問だ。膨らみすぎてトンチンカンになってる可能性も大いにある。

でも良い経験だったのは間違いない。一応、今やっているように文章として書いたり過去の事についても書いたりはするけれどそれらを話す事ってそんなにしっかりやる機会も意外と無い。話しても1から話す事も無いし10まで話す事も無いし聞かれた事は話しますよって心構えになることなんてそれこそ滅多に無い。話して振り返るには絶対に他人が必要なのでそこが日記とは大きく違うところだろうか。日記は自分が勝手に振り返っていくが話すことはそれを聞いた人が新たな疑問を持ったりして流れが逐一変わるので自分の思い出しやすい物をパッと掴んだりは出来ない。だから自分の引き出しは大忙し。それがまた良いのだと自分は思う。その引き出しの大忙しは思わぬ物に触れて気付きが得れる事もある。しかし普段の会話程度ではそこまで行かずにかいつまんだ一部の切り取りを話す程度になることがあらかたのパターンではないだろうか。

それと面白いなと思ったのは自分が放った言葉が自分の頭上に向かっていってフワフワして漂った後に自分に返ってくる感じがあった。会話は常におこなわれ、言葉は絶えること無く放たれているので自分の頭上には言葉が常に漂っていた。言葉が返ってくる感覚に自分と会話するとこんな感じなのかな?って思えるような何かがそこにはあった。

なんでゼロ円ハウスに来たのか?この時、この時期は何を感じてどうしていたのか?生きて良い理由を探していた人間が何故引きこもりになれたのか?色々と話した気がする。自分ってこんなことを考えてるのか、考えていたのかと。日記を書いていても思うことはあるけれど話すことは日記以上に強く思う。

正直、今でも明らかになっていないことや解決していないことはいっぱいある。この先どうなるのかも分からない。どうなっていくかも分からない。だけど漠然としつつも1つ抜け始めたのか分からないがその分からない事に不安は思った程、強くはない。この先で何をしてるのか検討もつかないけど何かをして生きているだろうなと思う。どうせ人生なんて自分の思い通りには全く進まない。でもどこかで自分の人生って思い通りに出来る、生きれるという勘違いがある気がする。そのふざけた価値観にようやく諦めの兆しが見えてきたのかもしれない。

そしてゼロ円ハウスのみんなが数年後、どう生きているのか楽しみなところがある。みんなが出ていって、何年か経った時のみんなに会ってみたいなと思う。自分がどうなっているのかも同じぐらいに気になるし楽しみなところもある。

Kさんのインタビューは間に1時間ほどのブレイクタイムを挟みつつ、午前、午後、夜と3部に渡って繰り広げられた。ブレイクタイムを含めると計12時間だった...まるで運動部の合宿のような構成になっている。

Kさんはマジで体力オバケだなと思う。良くずっと話を聞いてられるなと思う。途中からどこがカメラ回っていてどこがカメラ回っていないかが自分の中で分からなくなってきていた。

昼の部が終わった頃、ブレイクタイムの時にKさんはコンビニに行っていた。その時に自分が外に出たら、男性に声をかけられて、八朔食べるか?と聞かれたので、いただきますと言ったらコンテナ丸々1つをいただいた。自分の記憶ではその人とは面識無いのだが...Kさんが戻ってきて、その話をしたら撮りたがっていた。だろうなと思いつつ自分も話したところがある。

人はみんな、恐らくは言えないことがレベルが違っても自身の中には無数にあるものだ。それを全てさらけ出せる人は恐らくいないし、そもそも全てをさらけ出さなくても大抵はなんの問題も無い。だが隠すことは色々な問題を起こす可能性はある。でも隠すことは別にしたい訳じゃないけど言えない時は言えないし、言えないものは言えない。そう思っているのに言う必要もない。それは結果だけ見たら隠してるのかもしれないが、隠しにいってる事と結果的に隠してる風に写るのはまるで違う事だ。しかもそこで言っても何にもならない事が往々にしてある。お互いにそれに対して起こることを受け入れる余白が大抵無いからだ。だから自分が言えないと感じている。それでも言おうとするのは自分をオープンにする、自分の弱さを出すとかとはまた違う。逆に言うと自分が抱えておけない故のそれこそ、弱さな気がする。人に言うことで自分が楽になろうとすること、そしてそこには他人を利用する利己的なエゴがある。本当にそれが自分の人生において大切な事ならいずれ自分にも相手にも余白が出来て話せる時がくる。その時がベストな気がする。自分が思うベストと本当のベストは違う。言える人に言える事を言える量を適切に伝えること。それが大事なのかな?とも思う。

3年程前に高校の時の友達と疎遠になった。その友達は女性だったが高校1年から仲良くなり、自分の中ではかなり仲が良いと思えるほどの人だった。多分相手もそう思っていたと思う。結構男勝りな感じで特に同性の後輩からの支持がとてもあるようなタイプだった。それでいて何故か彼氏は途切れないような異性からも魅力的に見える部分があったのだろう。自分にその魅力は全く分からなかったけど...高校を卒業してから、期間は空いたりはしていたがたまに会ったりもしていた。でも自分はその友達と1度も喧嘩も些細な衝突も言い合いすらもしたこと無かった。自分も友達も決して人当たりは良くないし気に食わない物は気に食わないと思う方だし納得できないと基本的には首を縦に振らない。なんなら友達は人間関係ではそれなりに衝突回数が多い感じだった。本人もそんな自身に悩んでるような感じもなく、本能的にそんな自身に納得しているようだった。そんな2人が関わっていて1度も衝突することが無いと言うのはそもそも振り返ればおかしな話しな気がする。わざわざ喧嘩する必要も無いし衝突する必要も無いのだけどそれがゼロなのも不自然過ぎる気がする。たまに話題にすらなった。2人の中で。自分達って1回もぶつかったこと無いよねって。お互いが不思議だった。

今振り返ると自分はある時からその友達に対して今でも言葉で説明出来ない違和感があった気がする。

その友達は信頼できる人には何でも自身の事は話すし話せる!って感じだったが自分は信頼できる人でも話せないことはいくらでもある。って言うのが自分の基本的なスタンスだ。

高校を卒業した数年後にたまに会うようになる頃からそのスタンスの差異を自分は大きく感じていたしどこかで友達を疑っていた。本当に全て話せるの?そして話してる?と。

大体いつも会う時はもう1人の男友達を交ぜた3人が多い。俺らに話してないことが本当に無いのか?しつこいようだがそう思えてならなかった。その疑念がどんどん膨らんでいったせいなのか?はたまた他の理由があるのか?それは分からないが遂に自分と友達は衝突した。それは本当に些細な事だった。

その日は3人でご飯を食べる予定だった。割りと久しぶりに集まる日だった。最初に自分と友達でお店まで向かってい。もう1人の男友達は仕事で後から合流するとの事だった。

自分は同じ話を何度もするのが基本的に嫌い。しかもこの時期は特に仕事とかの話を聞かれたり話したりするのが嫌いだった。何度か自分の形上の話はしていた。しかしその友達はまたも同じ事を聞いてきた。なので自分は、前と同じだよと言ったら、えっ?そもそも何してたっけ?と返してきた。自分の中で諦めが覆い尽くした。別に分からないならそのままで良いわと言ったら、もう一度説明してと言われた。なんでもう一度話さなきゃならないのか?そう思った。いや、普通に話せば良くね?って思うと思う。それは友達にも言われたがその時の自分にはそれがとても労力のいることだった。そしてここで差異を強く感じた。その友達は自身が今どんな状況であるかを話したいし共有したいと思っていた。だから自身の事もそれなりに話すし相手にもそれを求める。そして友達はあまり人の話は覚えていない感じで良くも悪くも軽い感じで自身の事は話すし相手の事も聞く感じが今思えばあった。自分は自分で言うのも何だけど割りと話は覚えている方だし相手の話を聞くのも自分の事を話すのも少し重さが乗る。

良いからもう一度話せよVSなんでもう一度話さなきゃいけないんだよ。この構図になった。話を大して覚えてないようなヤツにもう一度話してもこの件は恐らく繰り返す。そんな手間をかけてられないし自分にはそんな余裕が無かった。

もうお店に着く前に自分はとても帰りたかった。めんどくさくて。そして3人でご飯を食べた後に解散してからLINEで少しばかりやり取りをした。

本当に俺らに言えないことは何もないの?さらけ出してるの?と聞いた。そしたらあっちは、無いね。さらけ出してるよとの返事だった。そうかと思い、自分は初めてその友達との大きな差に直面したように思った。しかしこの返事も疑っている自分がいたように思う。

何か解決がされないような違和感を抱えながらも過ごしていたある日。他の友人と先に書いた男友達と3人で集まってご飯を食べていた時のこと。ふと友人が、○○(先に書いた疑惑の女友達)の不倫ってどうなったの?とナチュラルに放ったその言葉に自分は思わず、えっ?っと食いぎみで返してしまった。その反応を見て、えっ?となる相手と冷静な男友達。その言葉を放った友人に手を引かれて席を離れた。知らなかったの?と聞かれて、知らなかったと答えた自分。その友人はごめんと謝っていた。何に謝っていたのか全く分からないが恐らく自分達の仲の良さを知っているから自身がそこにヒビを入れたと思っているのだろう。ヒビは入ってますよ、結構前からと言いたい。どうやらその友人は男友達から聞いたらしい。男友達は全てを知っていた。先の女友達から全てかは分からないが大体は聞いていたのだろう。

そこで自分は今までの違和感の正体にたどり着いた気がした。こじつけかもしれないが。男友達はその話を聞いた時にアイツ(自分)に話した?と聞いたらしい。そしたら、話せないよねと言っていたそうだ。

男友達も自分をなだめるように、まぁ人だし失敗するでしょ。って言葉をかけてきた。いや、自分は不倫についてどうこう言うつもりは無かった。いつも、筋を通せだのなんだのと人の道を説いたような事を口にしていたがこの様かと。お前が放った、話せないことは無いと言う言葉に筋は通っているのですか?そしてそんな糞みたいなウソついて大丈夫だと思ったのか分からないが普通に何食わぬ顔でウソを放つ神経に自分は煽られた気分になった。バレないと思ってるのかよ。物事を甘く見すぎでしょ。そう思った。それ以来、先に書いた女友達とは自然と疎遠になった。そして自分の中で疑いの感覚は解消されて、信頼は消え失せていた。

誤魔化したりウソをついたり、自分もしたことはあった。それは紛れもない事実。だけどそもそも自分は自分の事を全てさらけ出せる、出せてるなんて少しも思ったことは無かった。そして誤魔化しとウソは必ずバレるし何よりも誤魔化しとウソをついている時、自分の中の気持ち悪さと不快感は想像を絶する。その反応だけで自分が自分に如何に間違った選択を課してるかが分かる。バレること、そしてそれによる不利益を被ると事がまるで見えていない。だからそんな甘さが際立った事が出来るのだと思う。自分は本当に爪が甘いヤツが嫌いだ。ウソをつくのならウソがバレることを、不利益を被ることを覚悟しろよと思う。その覚悟を自分は女友達から感じとることが出来なかった。

Kさんのインタビューで話すことで色々振り返り、自分が色々と話せないと感じる時期などは多くあったし今も全てが話せるわけでも無い。隠しておきたいこともウソをつきたくなることもいくらでもある。それでもまたこの先、数年後には、そう言う時期があったよなと自分に思うと思う。それの繰り返しだなと思う。ウソをついてしまう、隠してしまうことはあるけれどそれを無理矢理肯定したりバレないなんて思う軽率な感覚は絶対に持ちたくないなと思う。

言うて自分はこうやって自分の事しか振り返っていないし自分の人生には自分しか登場していない。これは前々から日記には少し書いている。

人の為に何かをしたことも、何かを守るとか支えるとか力になろうとしたことも無い。人の為に自分を使えるって凄いことだなって思う。自分は人の為に何かをしようとするとそこに何かをしようとする作為が強く発生する。それはその時点で人の為では無くなっている。自分が行うそれは人の為を想像した自分の思う物であり、実際のそれとはまた別の物だ。そんな自分の事しか考えられない自分に時折落胆することがある。しかし自分の事を考えてるぐらいが丁度良いのかもしれないとも同時に思う。人の為になんて崇高な事を自分が出来る人なんて傲りを持つことが傲慢とさえ思えてくる。そんなに出来た人間でも無い事をさっさと認めてしまえば良いものの変な期待と諦めの悪さが顔を出す。まぁ自分の事しか考えられないから存在するメリットもあるのだと思う。

人の為なんて高らかに言って、人の為に何かを行うことが出来ている人を自分はあまり見たことがない。人の為に何かをしている自身が好きでそれが安心する人は良く見た気がするけど。

Kさんは自分への追求は人生を楽しくする物だと言っていた。自分は人の為にと思える方が人生をより楽しくすると思えてならない。確かに自分の追求がつまらない訳じゃないしそれが自分の人生を支えてくれているとは強く感じている。しかし必ずそこでも思うのは人は1人では生きられないのに、そして何回も繰り返す誰かのお陰でという支えで今の自分は生きていると言う現実がある。なのに自分は自分の事しか考えていない。それらを返す事をしてこなかったし返す事が能力として備わっていないのではないかと思うほどに自分の事しか考えられない。

でも何故人の為にと拘るのかと言えば、先に書いたように人の為にが人生の中であることは自分の人生をより楽しくするとか豊かにするとかがありそうだからだ。だから結局はここでも自分の為なのだ。自分は自分から出ることが出来ない。ここまで来てほんの少しだけ、人の為は諦めようという志が出てくる。

夜は男子高校生みたいな会話が繰り広げられた。Kさんは掘れば掘るほど色々と出てくる。湯水のように真新しい事が次々と出てくる。底が見えない。まだまだ何かありそうで今後も楽しみである。

話しすぎて話したことも質問された内容も全く覚えていないけど感じることや思い出された事は結構あった1日だった。

寝る準備をして布団に入り、アラームをセットして眠りについた。

ゼロ円ハウス167日目終了。

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