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一枚の写真から ラリーカーシリーズ1・・・3倍疲れたスバルの初代レオーネ

機会があり、スバルの初代レオーネ・クーペに乗ったことがあった。
今回はそのエピソードを書いてみたい。
というよりも、今だから書けるエピソードである。

■ラリーの神様の力は偉大なり


1975年当時、新聞社の社員である私は、子会社である日本モータリストクラブ(JMC)に出向し、1年中ラリーコース設定で全国の山岳路や峠道を走り回っていた。
そんな特殊なことを仕事にしているのは、全国でも私と上司の二人だけであった。

私のボスは、「ラリーの神様」の異名をとる澁谷道尚氏だった。神様の異名を持つだけあって、「ボスの神通力はすごいものがある」と見た私は、ボスの渋谷さんに「ねぇ澁さん、ラリーコース設定車に使うクルマを、各メーカーから貸してもらったらどうでしょう」と持ち掛けた。

ボスは一瞬の思慮ののち、答えた。「そうだな。よしメーカーに訊いてみよう!」
ボスは机の前の電話をとった。連絡先は、スバル、ダイハツ、ニッサン、いすゞ、マツダ・・・。ものの数分でOKの返事をもらった。さすが神様である。

私は、「シメシメと思った」。
当方のJMCにもラリー仕様のスカイライン2000GTや、三菱ギャランはあった。だが色々な車に乗ってみたい気持ちがあり、しかもそれがファクトリーチームのラリーカーとなると、さらに気持ちは高まり、ワクワクしてくる。

多分、ボスの澁さんにも、その気が大なり小なりあったのだと思う。
私がメーカーに話しても、門前払いか、丁重に断られるのがオチだろうが、ボスなら電話一本で話がまとまる。「神様の力は偉大なり」と感じた。

こうして、何かを成すとき、自分が直接やることより、人を上手に使う方法があることを覚えた。

■異色の組み合わせ、FFと水平対向エンジン

毎年3月に関東地方で開催していた「日本マウンテンサファリーラリー」のコース設定に、私は出かけた。今回のコース設定車はスバルの初代レオーネでクーペタイプだった。

当時車は、FR(フロントエンジン、リヤ駆動)が主流で、スバルのFF(フロントエンジン、フロント駆動)は変わり種の車だった。

スバルはそれを「FF自然流(じねんりゅう)」として、新聞広告などのキャッチフレーズにしていた。

確かに、後輪駆動にして後ろから押すよりは、前輪駆動にして前から引っ張って走る方が理に適っている。

さらに水平対向エンジンも変わり種であった。一般的なエンジンはピストンが上下に動くからエンジンの高さがどうしても高くなるが、水平対向エンジンだとピストンは水平に動く。だから横幅は必要になるが、エンジン本体の高さが低く抑えられる。すると重心を低く抑えられるので、安定性が増す。

その二つ、つまりFFと水平対向エンジンという組み合わせは、乗用車の中でも異色だった。

理論上は頷けるが、初期の頃はクセが強かった。

■凄いキックバック、3倍疲れた初代レオーネ

今回の「日本マウンテンサファリーラリー」のコースは、山梨から長野方面を走る約500㎞の設定だ。
最初のコース調査は、このレオーネに乗って、私一人で行く。

2回目は試走で、私とボスの二人で走る。
試走は、距離測定と確認走行を目的として行うもので、ここでコース台帳に控える距離などをミスすると大変なことになる。
だから、距離も、目標物、道路形状などを二人で復唱しながら、走る。

3回目は本番だから、私が先行車として走る。
この時はサポート役として1~2人乗せて走るが、コース上に支障があれば、全て私の責任と判断で、う回路指示などの対処をしなくてはならない。しかも2時間の時間制限がある。
なぜなら2時間後に約100台のラリーカーが走っているからだ。

さて、初回のコース設定に出た私は、信州峠や八ヶ岳の通称ハチマキ道路をコースに組み込んだ。
信州峠は、山梨県と長野県の県境にある峠だ。2月3月はまだ雪がある。信州峠の中腹では、泥んこ道にはまりスタック(動けなること)。私一人だから、自分でどうにかするしかない。スコップやジャッキを出し、泥まみれになって、ようやく脱出。


コース調査時の信州峠。
長野県の川上村にて
雪の信州峠(長野県側)
ラリー本番時。


ラリーコースの最後の山場として選んだハチマキ道路は、日本では珍しくダート(砂利道)で、優に時速60キロは出せる高速ダートコースだった。
ところが当時まだこの道路は全て完成しておらず、ところどころ橋が無い。そこに差し掛かかると、左側の側道に入り、谷の下方にある川渡をしなくてはならない。

高速から急にヒール&トゥのテクニックを使って一気に減速するのだが、同時に左側の狭い道に入るためハンドルも切らなくてはならない。
その狭い道は、道と言うより大きな石を敷き詰めたような悪路で、ハンドルが左右にとられる。
パワーステアリングなど普及していない時期だから、タイヤからもろに伝わってくる衝撃を手で押さえるしかない。だからレオーネのハンドル径は大きかった。
路面からのハンドルに左右に回そうとするキックバックは大きく、私は手首を捻挫しそうになった。

FFと水平対向エンジンの初期レオーネは、クセの強い車だった。そしてギャランなどのラリーカーより3倍疲れると感じた。

■今や、世界の主流になったFF車
当時は変わり種だったFF車は、日本ではスバルが牽引役となり、今やFF車の方が主流となった。キャデラックなどの高級車と言われる車もFF車となった。

FF自然流(じねんりゅう)と銘打ったスバルは、先見の明があったのである。
それに加え、乗用タイプの車に4WD(4輪駆動車)を日本で最初に取り入れたのもスバルであった。

記憶によれば、東北電力のトップであった白洲次郎が、送電線のメンテナンス用にバン型車両に4WD車製造を要望したことが引き金になり、乗用タイプの4WDが普及した。

後年、水平対向エンジン、乗用4駆のパイオニアであるスバルに魅力を感じ、スバルレガシィを3台乗り継いだ。

スバル愛好者を「スバリスト」と呼ぶ言葉まで生まれた。

飛行機会社・中島飛行機の血を引くスパル。
「独特の味を持つスバルよ、永遠なれ」と、夜空に輝く六連星のスバル(昴)を見上げ、そう心で叫んだ。

私の乗った1代目、レガシーグランドワゴン。
4月、岐阜県の平湯温泉付近にて。


私にとっての2代目レガシーグランドワゴン
東京にて。

#ラリー #ラリーカー #スバル #中島飛行機 #信州峠  


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