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初夏の風物詩「七里御浜の鯉のぼり」(三重県熊野市)【紀伊半島を知る、伝える】

(生まれ育った土地を“故郷”と呼ぶのなら、居を構え、もっとも長く暮らした土地は“地元”と呼ぶのだろう)

令和5年(2023)11月29日、父の三回忌法要を終えたあと、三重県の紀北町(旧・海山町)と尾鷲市にまたがる「便石山」(599m)の「象の背」に立ち、そんなことを思った。

父にとっては紀北町が故郷で、尾鷲市が地元にあたる。

左:紀北町/右:尾鷲市

父の死を機に自らのルーツを意識するようになり、45歳を前にセカンドキャリアについて考えるようになった。

そして「もし将来、紀伊半島に活動拠点を移すとしたら、今の僕がすべきことは何か?」を考えたとき、馴染みのある紀伊半島の東側、三重県の紀北町・尾鷲市・熊野市・御浜町・紀宝町の5市町で構成される「東紀州」も含め、紀伊半島について知らないことが多いことに気がついた。

まずは知ることから始める――何事においても基本だ。

東京で生活しながら情報を収集すべく、令和6年(2024)1月、Facebookの【紀伊半島の魅力を伝えよう】というグループに参加した。

「東紀州」を中心に、同グループに投稿した「紀伊半島」に関する情報や画像を、その時季に合わせて紹介していく。

【紀伊半島を知る、伝える】
初夏の風物詩「七里御浜の鯉のぼり」

【撮影】:水谷靖彦

初夏の風物詩「七里御浜の鯉のぼり」

三重県熊野市の恒例の催し「泳げ!鯉のぼりくん」は、昭和59年(1984)に開催された第1回「七里御浜投げ釣り大会」で約80本を掲揚したのが始まり。

昨年(2023)主催する市民団体の高齢化が進んだことから「最後の開催」と発表したけれど、市内の20~30代の若者たちが活動を引き継ぐこととなり、今年も空を舞うことになったという。

余談ながら「鯉のぼり」の起源を江戸時代中期の町人層に求める記述を見かけるが、実ははっきりしたことはわかっていない。

ただ、江戸後期、天保年間(1830~1844)に出版された『東都歳時記』には「紙にて鯉の形をつくり、竹の先につけて、幟と共に立る事、是も近世のならはし也。出世の魚といへる諺により、男児を祝するの意なるべし。たゞし東都の風俗なりといへり。初生の男子ある家には、初の節句とて別て祝ふ」とあるから、どうやら「鯉のぼり」は江戸で生まれ、遅くとも江戸後期には男児の立身出世を願って掲げられていたようだ。

ちなみに「鯉のぼり」は明治の頃まで真鯉(黒い鯉)だけだったが、しだいに真鯉と緋鯉(赤い鯉)の2匹を対で掲げるようになり、昭和30年代には家族をイメージした子鯉(青い鯉)がつくなど時代とともに進化。2匹を対で掲げていた頃、真鯉は父親、緋鯉は男児と定義されていたが、家族観の変化とともに緋鯉は母親、青鯉が子供と再定義されたという。

令和6年(2024)5月3日のFacebookより

【撮影】
水谷靖彦

【撮影日】
令和6年(2024)5月2日

【所在地】
三重県熊野市木本町―井戸町

【メモ/雑学】
・「七里御浜」は、紀伊山地の火成岩や堆積岩が熊野川上流から下流に運ばれて円礫となり、海流によって打ち上げられてできた砂礫海岸(熊野川河口から遠く離れるほど粒度が細かくなる)。
・熊野市街から七里御浜に沿って、熊野三山のひとつ「熊野速玉大社」(和歌山県新宮市)に向かう道を「七里御浜道」(浜街道)と呼ぶ。
・「七里御浜道」(浜街道)の防風・防潮のマツ林は、江戸時代初期、元和5年(1619)に新宮水野家初代城主・水野重仲(重央)が遠州浜松からクロマツの苗木を取り寄せて植林したとされる(近年、松クイ虫被害による枯れでマツが減少しており、毎年マツの植樹や林内清掃等、マツ林の再生に取り組んでいる)。

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