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『唄ふ弥次喜多』(一九三六年三月二六日・P.C.L.映画製作所・岡田敬、伏水修)

文・佐藤利明 イラスト・近藤こうじ

製作・配給P.C.L.映画製作所/録音・現像 寫眞化学研究所/1936.03.26・大阪敷島倶楽部/九巻・二,〇〇二m・七三分)

【スタッフ】演出・岡田敬、伏水修/原作・古川緑波/脚色・阪田英一/撮影・吉野馨治/録音・金山欣二郎/装置・久保一雄/編輯・岩下廣一/音楽監督・鈴木静一/主題歌作詞・佐伯孝夫 主題歌作曲・鈴木静一 ビクターレコード・五三六九九号

【キャスト】古川緑波(彌次郎兵衛)/徳山璉(喜多八)/藤原釜足(釜之進)/高尾光子(砧姫)/宇留木浩(治之守)/鈴木桂介(鼻水垂四郎)/三益愛子(おくん)

 古川緑波は、もともと映画評論、文筆家を目指していた。旧制早稲田中学在学中、大正七(一九一八)年には、映画雑誌「映画世界」を発行、早稲田第一高等学院進学後「キネマ旬報」同人となり、大正十一(一九二二)年には、小笠原プロ『愛の囁き』(小笠原名峰)で映画初出演を果たした。早熟の天才として注目を集めた緑波は、菊池寛との知己を得て雑誌「映画時代」の編集者として文藝春秋社に入社した。

 大正十五(一九二六)年、関東大震災で開店休業となった活動弁士の徳川夢声たちが結成した「ナヤマシ会」に参加して、宴会での余興芸だった歌舞伎役者などの「声色」を披露。それをロッパ自身が「声帯模写」と命名、現在のモノマネにつながる芸の始祖となった。やがて菊池寛の後援もあって雑誌「映画時代」を独自経営するも、殿様商売で失敗して負債を抱えてしまう。

ならばと、得意の「声帯模写」を活かして、昭和七(一九三二)年に喜劇役者として正式にデビューを果たした。やがて、昭和八(一九三三)年四月一日、ショウビジネスの中心地だった浅草で、ロッパの発案で劇団「笑の王国」を旗揚げした。そこでロッパは「凸凹放送局」「凸凹ローマンス」などの台本も執筆。歌舞伎の演目など、お馴染みの題材を本歌取りしてパロディにしてしまう「アチャラカ」スタイルを「笑の王国」で確立。笑いのメッカ・浅草で、エノケン一座の「ピエルブリヤント」と人気を二分した。

 その人気絶頂の昭和十(一九三五)年六月、菊田一夫作「血煙荒神山」公演を五日間で打ち止めにして「笑の王国」を脱退してしまう。かねてから声がかかっていた東宝に引き抜かれての電撃移籍だった。そして翌月、七月には、横浜宝塚劇場で、東宝ミュージカルプレイヤーズ「ガラマサどん」「ロッパの声帯模写」公演に出演。東宝からの引き抜きの条件は「ロッパ一座」を組むことだった。

 そして八月には、念願だった日比谷・有楽座に進出、「東宝ヴァラエティ・古川緑波一座」として上演したのが代表作となる「歌ふ弥次喜多 東海道小唄道中」だった。ロッパの相方は、ビクターの人気歌手・徳山璉。二人は「歌ふ弥次喜多」を皮切りに、舞台、レコードで共演、名コンビとなる。

 この「歌ふ弥次喜多」は、九月に有楽町・日本劇場でも上映された。この時の舞台がNHKによって全国にラジオ中継され、その時の舞台公演や劇場の様子が「オペレッタ歌ふ弥次喜多」として短編映画に記録されている。ロッパ、徳山璉、三益愛子の舞台での活躍が活写されていて、わずか2分半の映像だが。NHKアーカイブスに残されているのはありがたい。

 この舞台「歌ふ弥次喜多」は大人気となり、昭和十一(一九三六)年、正月は京都宝塚劇場で幕を開けた。一月三日のロッパ日記には「『弥次喜多』の受けるの何のって日劇の三分の一の人数でゐながら、丁度あの位笑ふ」と記されている。一月十三日からは、名古屋宝塚劇場で上演され、この時にP.C.L.での映画化が決定。

 名古屋のホテルへ岡田敬監督が打ち合わせにやってきたりと、この頃のロッパ日記は「弥次喜多」のことばかり。映画は二月三日にクランクインしている。

 舞台人だったロッパにとっては、これが映画初主演。しかも自らの原作、一座総出演という晴れがましい作品の筈だが、舞台人・ロッパには、一日の大半を「待ち」で過ごす映画撮影は退屈だったようだ。

 ビクターから発売の主題歌「歌ふ弥次喜多」は、クランクイン当日にレコーディング。この日の日記にはこうある。

<円タクで砧へ。行くと今日は僕のところは中止だと言ふ。呆れ返って物が言へない。全く映画は嫌だ。徳山も体があいたので、今日吹き込みの筈を一旦断った「歌ふ弥次喜多」主題歌を何とかして今日入れようと、兎も角ビクターへ行く。五時半から、「弥次喜多」吹き込みをした。>

 この十三日後に、「2.26事件」が発生するが、この時も撮影中だった。

<二月二十六日(水曜)七時半起き、四時から砧へ。三島の宿を撮影していると、伏水が大変になったさうだと言ふ。今朝四時六時の間に、五・一五事件以来の重大な暗殺事件あり、首相蔵相等五、六人軍部の手に殺されたと言ふ、その後流言ヒ語しきり、何処まで本当か分からず、不気味な気持ちのまま、撮影を続ける。>

 撮影中に発生した2・26事件は、日本の運命を大きく転回させていくことになるが、この時はまだ「不穏な出来事」に過ぎなかった。

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