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稲垣次郎が語るクレイジーキャッツの時代

稲垣次郎インタビュー
2018年7月31日 新宿にて
取材・構成:浦山珠夫(佐藤利明)

2018年7月、拙著「クレイジー音楽大全〜クレイジーキャッツ・サウンド・クロニクル」(シンコー・ミュージック)刊行時に、雑誌「映画秘宝」(洋泉社)で行ったインタビューのロングバージョンです。稲垣次郎さんとは、クレイジーキャッツについてに取材やトークショーを何度かご一緒してきました。ジャズ・ブームの時代、植木等さん、谷啓さんたちクレイジーキャッツのメンバーとのアーリー・デイズのエピソードをお伺いしました。

−−稲垣次郎さんといえば、フランキー堺とシティ・スリッカーズ、ハナ肇とキューバンキャッツで、クレイジーキャッツ前夜のメンバーとの交流がおありです。
稲垣 僕はね。高校生の時にデビューしたんですよ。埼玉県から横浜、横須賀のナイトクラブや進駐軍のEMクラブに通ってね。あ、もう米軍になっていたのか。(サンフランシスコ)講和条約で、占領が終わって進駐軍が引き揚げちゃった頃だからね。昭和28(1953)年。

−−フランキー堺とシティ・スリッカーズ結成が昭和29年4月ですから、その前の年ですね。
稲垣 僕は、昭和28年まで仙台にいたんです。で、仙台から帰ってきて、ピアニストの山崎唯のバンドのアルトサックスの高見弘が病気になっちゃったの。で、僕に「手伝ってくれないか」「いいよ」。そこで何ヶ月か吹いていたんですよ。その時に、トランペットの福原彰が、僕のとこにやってきて「シックス・レモンズのフランキー堺が新しいバンドを組むんで、谷啓と次郎を入れたいんだけど、こいよ」って言ってきたの。

−−福原彰さんといえば伝説のトランペッターです。原信夫とシャープス・アンド・フラッツの若きトロンボーン奏者だった谷啓さんに、フランキー堺さんが白羽の矢を立てた話は伺ったことがありますが、次郎さんも一緒だったんですね。
稲垣 だけどね。今は「冗談音楽」のシティ・スリッカーズとして知られているけど、最初、福原彰が僕に言ってきたのは“スタン・ケントン・オーケストラ”みたいな進歩的な“プログレッシブ・ジャズ”。つまりダンスのためのバンドではないコンサート・ジャズ・オーケストラを目指すという話だったの。だから、ぜひやって見たいと。ところが横須賀の「グランド・シマ」というナイトクラブのオーナーがスポンサーだったんだけど、行ってみたらお客のためにダンス・ミュージックをやらなきゃならない。しかも、そのダンス・ミュージックは、ほとんどレイ・アンソニー・オーケストラの譜面ばかり。いわゆるスイート・ミュージック。スイングだったから、がっかりしちゃった。

−−しかもフランキー堺さんは、スパイク・ジョーンズの「冗談音楽」を目指して、シティ・スリッカーズと命名。ピストルや、金だらい、ウガイ、あらゆる道具を使って音を出すという、壮大な実験を目指したそうですが。
稲垣 もちろん、「スパイク・ジョーンズと彼のシティ・スリッカーズ」の「冗談音楽」は知ってましたけど、僕はイヤでしょうがなかった(笑)なんでこんなことやんなきゃいけないんのかなぁ?って。その連続でした(笑)でもね、谷啓はイキイキしていたね。結構喜んでましたよ。トロンボーンを吹けるし、大好きなギャグもできるからね。

−−シティ・スリッカーズは、17人編成の大所帯、ボーカルを入れたら19人。日劇や国際劇場のような大きなステージでは演奏していたと伺いましたが、グランド・シマでもああいう冗談音楽をしていたのでしょうか?
稲垣 もちろんグランド・シマでもやってましたけど、お客さんは割とシラーっとしてた気がします。「何やってんだ?」みたいな。みんな、自分の楽器以外にピストルとか金ダライとか、擬音を担当していたけど、僕はやらなかった(笑)僕は、洗面器で植木(等)の頭をひっぱたくくらいで(笑)

−−植木等さん、谷啓さん、桜井センリさん。のちのクレイジーキャッツの3人がすでにシティ・スリッカーズに在籍していたのも、僕らは驚きなのですが、センリさんは最初からですよね。
稲垣 桜井センリさんは、トリオを組んでいたんだけど、その仲間のギタリストの鈴木康允さんと、二人でシティ・スリッカーズに入ってきました。でも鈴木さんが、しばらくして「冗談音楽はイヤだ」と辞めちゃった。そこで代わりに入ってきたのが植木等だったの。

−−植木さんの記憶では、いきなり日劇のステージでピンチヒッターで立ったそうですが、次郎さんの記憶とは微妙に違いますよね。
稲垣 そう。谷啓も日劇だって言っていたけど、僕の記憶ではね。内幸町のNHKの一番でっかいスタジオで、シティ・スリッカーズが放送前のリハーサルをしていたときに、一番奥の扉が開いて、いきなり「ウォーっす!」と手をあげて、笑いながら入ってきた(笑)みんなで「なんだ、この野郎は?」って、割とシラーッと見てたの。とにかく、めちゃめちゃよく喋る、軽い野郎だな!って。

−−「ウォーっす!」って手をあげて入ってきた、というのは、谷さん、植木さんそれぞれの記憶でも同じです。植木さんは電車でハナ肇さんとバッタリ会って、日劇に連れてこられて、鈴木さんの代わりにステージ立ったと。
稲垣 まぁ、人の記憶は忘却の彼方だからね。ハナ肇が植木を紹介したことは間違いないです。ハナ肇とは同じバンドにいたことはないけど、よく対バンとかで会っていたからね。僕も高校卒業前に、田端義夫のオーケストラにいたり、とにかくたくさんのバンドに入りましたからね。植木とも、以前から顔見知りしでね。植木は横浜の「モカンボ」で“植木等とニューサウンズ・トリオ”を組んでいたんです。僕も横浜の進駐軍クラブに出ていたから、休み時間にいつも行っていたんです。

−−「モカンボ」の頃の植木さんは、モダンジャズに傾倒していて、あの守安祥太郎さんの「幻のモカンボセッション」の企画は、植木さんとハナさん、澤田駿吾さんの3人だったと聞いています。でも、そのモダンジャズの植木さんがいきなり「冗談音楽」のビッグバンドに入ってくる、というのも時代が変わる瞬間ですね!
稲垣 そうだな! 進駐軍が引き揚げて、それまでのような仕事がなくなってきたことは確かでね。シティ・スリッカーズは、グランド・シマに出ながらね日劇に7週間出て、記録を作ったの。その7週間てのは覚えてますよ。でも日劇の舞台では、完全なスパイク・ジョーンズ・スタイルは1〜2曲でね、むしろ頭にターバンを巻いたり、コミカルな格好をしてアトラクション的な演奏をしていたなぁ。フランキーがおかしな歌を歌って、その伴奏だったね。大阪の大劇のステージでは、谷啓が大砲をぶっ放したり(笑)国際劇場じゃ自動車を舞台に上げたりね。地方で、トニー谷と共演したこともあったな。

−−フランキーさんが目指したのは知的なエンタテインメントだったと思いますが、お客さんは「わかりやすい笑い」を求めていたんでしょうね。
稲垣 そうなんだ。シティ・スリッカーズのレパートリーはね。「ウイリアム・テル序曲」、フランキーが歌う「セシボン」。これが決め手だったね。でもね、そのうちフランキーが日活映画に出るようになって、忙しくなって、だんだん来なくなって、またダンス・ミュージックばかりを演奏するようになっちゃった。本当はスタン・ケントンやりたかったのに、またレイ・アンソニーに戻っちゃった(笑)一流のメンバーだったから、それはそれで良かったんだよ。

−−その頃、ハナ肇さんは犬塚弘さん、のちに「スーダラ節」を作曲する萩原哲晶さんたちと“ハナ肇とキューバンキャッツ”を結成していました。次郎さんもキューバンキャッツに移籍されることになりますが、そのきっかけは?
稲垣 有楽町にね。みんな仕事にあぶれたジャズマンが集まる「コンボ」という喫茶店があったの。今、思えば、クレイジーの連中がみんな出入りしていたな。そこでハナ氏が、ほとんど毎日のように顔を出していた。そこでキューバンキャッツに誘われたの。サックスの柴田昌弘ってのが学生で、出たり入ったりしていたから。「次郎ちゃん、頼む」ってハナにね。

−−その時は、デクさん(萩原哲晶)はまだ、キューバンキャッツに?
稲垣 デクさんと僕が重なっているのは、ほんの数週間、一ヶ月ぐらいかな?そんなもんですよ。ハナが目指していたのはコミック・バンドだったけど、谷啓のようなギャグマンがいないし、最初はラテン・バンドだったの。で、植木と谷啓と引き抜いたら?って僕が言ったら、ハナも同じことを考えていたんだよね。僕が辞めるときに谷啓に声をかけたんだけど、一緒に辞めるのはマズいからと。そこで谷啓を引っこ抜いて、ついでに植木を、ってときに、シティ・スリッカーズのマネージャーというかフランキーの個人マネージャーの奥田喜久丸がね、止めるわけですよ。

−−谷啓さんは「怖かった」って言ってました。
稲垣 慶応出て、まだ若いんだけど、最初から黒幕って感じがあったんです。僕はフランキーと喧嘩してバンドを辞めたんだけど、辞める奴はほとんど喜久丸と喧嘩して辞めてましたからね。なんたって動き方が、アメリカのマフィアなんですよね。

−−のちに映画プロデューサーとなって、東京映画でフランク・シナトラ監督の『勇者のみ』(65年)の製作をしたのも奥田さんです。最後はラスベガスの債権回収会社の日本代表になってマスコミを賑わしましたね。
稲垣 で、谷啓が引き抜かれて、植木もすぐに行こうと思ったんだけど、「ただじゃおかないぞ」と脅かされて、一回、辞めるのを諦めてたんです。

−−で、結局、最後の一ヶ月分のギャラを貰わずに、植木さんが昭和32年3月にクレイジーキャッツに入ることになります。その頃、次郎さんは?
稲垣 植木が来たのは、谷啓が入ってから一年後だからね。だから僕はクレイジーキャッツで、植木、谷と3人で演奏したことがないんです。その前に僕は辞めちゃった。もうクレイジーって名前になっていたと思うけど。
僕の前から石田正弘ってテナーサックスがいて、“ポン公”というあだ名でね。これが色々問題があってね。そのことは佐藤くんの本に書いてあるでしょ?

−−はい。「クレイジーになれなかった男」の顛末については「クレイジー音楽大全」に書きました。
稲垣 僕はポン公とは横須賀で出会ったんだけど、ちょっと手癖が悪くてね。楽屋で物がなくなったり。色々あったから、ハナも頭を悩ませて、結局、真面目な安田(伸)さんを入れたんです。僕が辞めた後だけどね。安田さんは、その前に、ピアノの石橋エータローと横浜でバンドやっていたんです。そうやってなんとなく、クレイジーのメンバーが集まってったんです。

−−次郎さんはなぜお辞めになったんですか?
稲垣 やっぱり「笑い」をやることに抵抗もあったし、あとでフジテレビで「おとなの漫画」をやるでしょう? そのときに、あ、やらなくて良かったなって思いました。考えてみたら、シティ・スリッカーズで桜井センリ、植木等、谷啓。キューバンキャッツでハナ肇、犬塚弘、萩原哲晶と一緒だったんだから。クレイジーのメンバーと過ごしていたんだね。

−−その後、次郎さんはジャズの世界で活躍され、70年代には伝説の“稲垣次郎ソウルメディア”でジャズ・ロックの新境地を開きます。そして大滝詠一さんの「ナイアガラ・ムーン」に参加されました。
稲垣 最初、大瀧は僕がシティ・スリッカーズ、キューバンキャッツにいた頃を知らなかったんです。で、しばらくしてから、それに気づいたのね。で植木やハナを紹介したんです。それがナイアガラとクレイジーの出会いになったんだよね。

−−そうです。その出会いがあってラジオ関東「ゴーゴーナイアガラ」の「クレイジーキャッツ特集」に植木さん、ハナさんインタビューが放送されて、僕たちがクレイジーに目覚めるんです。
稲垣 それでサントリーのCMを大瀧とクレイジーがやったんだよね(「実年行進曲」86年)。その頃、フランキー堺、トニー谷も紹介したんです。

−−それがLP「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」「ディス・イズ・ミスター・トニー谷」に結実するわけです! 僕らの世代がレジェンドと出会うことができたのは、次郎さんのおかげですね!
稲垣 そうだ。何年か前、神保町の映画館で、大瀧とあなたに会ったよね。シティ・スリッカーズが出た『初恋カナリヤ娘』(55年・日活)の切符をあなたにもらって、観にいったら偶然一緒になったことがありましたね。

−−その後、ハナ肇さんのオーバー・ザ・レインボー、谷啓さんのザ・スーパーマーケットに、次郎さんはテナーサックスとして参加されます。昭和20年代のジャズマンたちが昭和60年代に再結集したのもすごいと思います。
稲垣 すごく不思議なのはね。ある日、フランキーから「ちょっと会いたい」と電話がかかって来て、打ち合わせをしたの。フランキーはビッグバンドをやりたいとあれこれアイデアを言うんだけど、およそ実現が難しいもので、どうしようかと、帰って来た。そしたら、その日の夕方、ハナから偶然にも「俺、バンド作りたいんだけど、やってくれないか?」と電話がかかって来た。同じ日だよ!で、ハナ肇、谷啓、宮川泰さんたちと“オーバー・ザ・レインボー”を結成したんです。その後、谷啓のザ・スーパーマーケットにも僕は参加して、植木に「歌ってくれないか?」と声をかけたことがあるんだけど、曲目まで決まったところで、スケジュールの関係で流れちゃったのは残念だったね。

こちらは、代官山蔦屋書店での稲垣次郎さんと佐藤利明のトークショーの採録です。


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