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戦前、時代劇黄金時代 1912年〜1941年

 日活は今から100年前、1912年9月10日に創業した日本で最も古い映画会社である。1897年日本で初めて映画興行をした吉澤商会、日本映画の父・牧野省三や日本初の映画スター“目玉の松ちゃん”こと尾上松之助を擁していた横田商会、洋画輸入からやがて映画製作へと乗り出したエム・パテー商会、映画館を経営していた福宝堂。この四つの会社が合併して設立されたのが“日本活動写真株式会社”すなわち“日活”ということになる。

 創業当初からエポック作品を次々と放ち、なかでも“目玉の松ちゃん”こと尾上松之助による時代劇は“旧劇”と呼ばれ、子供からお年寄りまで、あらゆる世代の圧倒的な支持を獲得。歌舞伎とは違う、大衆娯楽としての“時代劇”は日本映画を牽引していく新たなジャンルとなる。

 一方、トルストイの原作による『カチューシャ(復活)』(1914年)にはじまる三部作では、ヒロインを歌舞伎の故事に倣って女形が演じる現代劇を“新派”と呼び、この現代劇は日本映画の新しい流れとなっていく。

 初期には、現代劇は東京にある日活向島撮影所(1913〜23年)、時代劇は京都の法華堂にあった日活関西撮影所(1912〜18年)、日活大将軍撮影所(1918〜1928年)で創られていた。しかし1923(大正12)年9月1日の関東大震災で、向島撮影所が倒壊、東京のスタッフは大将軍撮影所に移転、現代劇も京都で撮影された。

 1927(昭和2)年には日活太秦撮影所(1927〜42年合併改称)が開設され、時代劇部、現代劇部ともに、ここから幾多の名作が作られることとなる。

 大河内伝次郎、阪東妻三郎といった剣戟スター、大日向伝、杉狂児などの現代劇スターが登場。溝口健二、阿部豊、村田実といった作家たちが次々と良質な作品を放ち、サイレント時代に日活は第一期黄金時代を築くこととなる。レコード発売された『拾った女』(1933年)は、太秦撮影所で創られた現代劇の主題歌。演奏をしている日活アクターズバンドは、所属俳優たちで結成されたアマチュア・バンド。戦後の日活ヤング・アンド・フレッシュの大先輩ということになる。これもレコード発売された「唄は縺れる」は、この日活アクターズバンドによる珍しいノベルティソング。ジャズの「ミュージック・ゴーズ・ラウンド・アンド・ラウンド」に乗せて、人気スター島耕二(後の監督)率いる面々が演奏する。

 そして映画はサイレントからトーキーへと移行していくが、1934(昭和9)年、震災以来10年振りに、東京調布に撮影所を開設。それが日活多摩川撮影所(現・角川大映撮影所)だった。そこで製作されたのがオムニバス映画『私がお嫁に行ったなら』(1935年)や、阿部豊監督の大作『緑の地平線』前後篇(1935年)『のぞかれた花嫁』(1935年)といった現代劇、もちろんいずれもトーキーである。

 同じ頃、京都では、山中貞雄監督、大河内伝次郎主演の『丹下左膳余話 百万両の壺』(1935年)が作られている。

 やがて日中戦争がはじまり、戦火は次第に拡大、時局は戦時体制となる。国家による映画統制の映画法が制定され、内務省による映画台本の事前検閲が義務づけられ、映画界から表現の自由が奪われてゆくこととなる。

 そうしたなか、1942(昭和17)年には、戦時企業統合により、映画界の再編が行われ、日活多摩川撮影所とスタッフ、専属スターたちなどの製作部門の一切は、大日本映画製作株式会社(後の大映)へと吸収され、創業から30年にわたる映画製作から撤退を余儀なくされることとなる。

信用ある日活映画 1954年〜1959年

 製作部門を大映に吸収統合された日活は、戦時中から戦後にかけて、映画館を運営する興行会社として継続していた。1945(昭和20)年、敗戦というかたちで戦争が集結、日活は“日本活動株式会社”から“日活株式会社”と社名を変更。連合軍は日本の民主化を文化面からはかるべく、ハリウッド映画の統括配給会社CMPE(セントラル・モーション・ピクチャー・エクスチェンジ)」を設立、戦争で公開されなかった、西部劇やミュージカル、ミステリーといった娯楽映画を次々と配給。日活はそれらを直営の映画館で上映、カラフルなアメリカ映画に、娯楽に飢えていた人々が殺到。それがやがて、昭和30年代の日活アクションや娯楽映画に大きな影響を与えることとなる。

 1954(昭和29)年、日活の掘久作社長は、いよいよ映画製作再開に乗り出し、東京都調布市に“東洋一のスタジオ”日活撮影所を建設。他社から若いスタッフや俳優を引き抜いて人材面を確保、短期間に製作体制を整えていった。これに対して、既存の映画会社が“五社協定”を結ぶも、それに屈せず、6月29日に新国劇と提携した『国定忠治』(滝澤英輔)と、藤本真澄プロ濁ション提携の『かくて夢あり』(千葉泰樹)を公開。

 再開日活には、月丘夢路、三國連太郎、森繁久彌、三橋達也、芦川いづみ、新珠三千代といった他社から移籍したスターを擁し、滝沢英輔、田坂具隆、市川崑、川島雄三といった新旧の才能ある監督が次々と良質な作品を発表。娯楽映画では新東宝から移籍してきた井上梅次らが、和製ミュージカルを精力的に手掛け、“信用ある日活映画”のキャッチコピーで、丁寧な作品作りをしていた。

 ところが、それまでカラーのハリウッド作品を公開していた日活系の劇場の観客にとって、モノクロの文芸作品やスケールダウンしたプログラムピクチャーは物足りなかった。良質な作品=興行的成功に至らず、苦戦を強いられることとなる。

 ところが1956(昭和31)年、芥川省を受賞して時代の寵児となった石原慎太郎原作の『太陽の季節』(古川卓巳)とそれに続く『狂った果実』(中平康)が巻き起こした空前の“太陽族”映画ブームで状況は大きく変わる。何より『太陽の季節』の端役でスクリーンにお目見えした、石原慎太郎の弟、石原裕次郎が『狂った果実』で堂々の主役デビューを果たしたことが大きかった。長身痩躯、スクリーンからはみ出さんばかりのエネルギー、その不良性・・・。裕次郎の魅力は、それまでの二枚目スターとは全く異なる、戦後の自由な空気そのものだった。

 日活は裕次郎のために次々と作品を企画。屈託を抱えながらもポジティブに前進していく石坂洋次郎原作の『乳母車』(田坂具隆)、ハリウッドを思わせる本格的なボクシング映画『勝利者』(1957年・井上梅次)、海洋アクション『鷲と鷹』(同)、ムーディなフィルムノワール『俺は待ってるぜ』(蔵原惟繕)・・・ ハリウッド映画的なジャンルのこれらの作品は、裕次郎をカッコ良く見せるためとはいえ、若手監督の起用による作品の充実も相まって、題材もテーマも描き方も、後の日活アクションの核となってゆく。

 同時に、宍戸錠、長門裕之、葉山良二、二谷英明、岡田真澄、川地民夫といった自前の個性派スターを育成。北原三枝、芦川いづみ、南田洋子、浅丘ルリ子といった女優陣も充実。西河克巳、斎藤武市、蔵原惟繕、舛田利雄といった若手監督をとデビューさせ、自由な空気のなか、良質な娯楽作品が次々と作られ、それが新たなスターを生むという、理想的なサイクルとなっていった。

 特に、裕次郎を育てた立役者の一人、井上梅次による『嵐を呼ぶ男』(1957年)の爆発的ヒットは、大きな原動力となり、翌、1958(昭和33)年は、まさしく裕次郎イヤーとなった。映画人口が史上最高の11億8千万人を突破、日本映画は黄金時代を迎えるが、それに貢献したのが裕次郎映画だった。

 裕次郎はまた“歌う映画スター”でもあった。『狂った果実』で映画のなかで甘い歌声を披露、それをきっかけにテイチク専属として、レコード歌手としてもデビュー。映画からヒット曲が生まれ、ヒット曲から映画が生まれる。その相乗効果で、日本の映画界、音楽界が充実。以後、日活スターは“歌うこと”が不文律となる。宣伝部は裕次郎に“タフガイ”というニックネームをつけ、主力スターとして以後も作品を連打。

 昭和34(1959)年、日活は第三期ニューフェースとして数々の映画に出演、若手の実力派の一人、小林旭に“マイトガイ”と命名、コロムビアから歌手デビューをしていた小林旭もまた“歌う映画スター”として数々のアクション映画に主演してゆくこととなる。

日活アクションの時代 1959年〜1961年

 1959(昭和39)年は、マイトガイ・アキラの年でもあった。抜群の身体能力、頭の上から出しているかのような高音の歌声。何をやってもサマになる小林旭のために、「銀座旋風児」「渡り鳥」シリーズが企画され、その荒唐無稽さも含めて、若者から年少観客の圧倒的な支持を受けた。前者は日活セットを中心に展開される“超人探偵もの”、後者は風光明媚な地方ロケを見せ場にした“和製西部劇”。『南国土佐を後にして』(1959年・斎藤武市)で見せた、抜群のダイスさばきは、以後「渡り鳥」シリーズにとって重要なアイテムとなっていく。

 一方、『清水の暴れん坊』(1959年・松尾昭典)で、裕次郎と共演した若手・赤木圭一郎の甘いマスクと、良い意味で邦画ばなれした雰囲気に目をつけ、裕次郎・小林旭に続く“日活第三の男”として大々的売り出されることになった。赤木の愛称“トニー”は、風貌がトニー・カーチスに似ているからと、西河克巳監督が命名したという。

 アクション映画好調の波のなか、ジャズピアニスト和田肇の息子で、まだ高校生だった和田浩治が日活へ入社。風貌が裕次郎に似ていることもあって、小林旭が邁進していた荒唐無稽なアクション路線で次々と主演。和田の愛称は本名から“ヒデ坊”。

 1960(昭和35)年初頭、日活では、“タフガイ”石原裕次郎、“マイトガイ”小林旭、“トニー“赤木圭一郎、”ヒデ坊“和田浩治の四人を、“日活ダイヤモンドライン”と名付け、彼らの主演作を次々とローテーションで公開していく“ピストン作戦”を展開、日活アクション黄金時代が到来する。

 トップスターだった裕次郎は、アクションだけでなく、石坂洋次郎原作の青春ものや、源氏鶏太原作のサラリーマン映画といった、等身大の青春も演じていた。小林旭は「渡り鳥」「銀座旋風児」「流れ者」に加えて、斎藤武市監督が浅丘ルリ子のためにと作った『東京の暴れん坊』(1960年)に始まる、後に「銀座の次郎長」シリーズと呼ばれるコメディにも主演。赤木圭一郎は「拳銃無頼帖」シリーズで、孤独の影をたたえた殺し屋を好演、和田浩治は「小僧アクション」と呼ばれる一連のアクション・コメディで大いに気を吐いていた。

 裕次郎には北原三枝と芦川いづみ、小林旭には浅丘ルリ子、赤木圭一郎には浅丘ルリ子と笹森礼子、和田浩治には清水まゆみ、と相手役の女優もチャーミングでそれぞれ個性を発揮。そうしたなか、高校一年生になったばかりの吉永小百合が、赤木のシリーズ第2作『拳銃無頼帖 電光石火の男』(1960年・野口博志)で日活デビューを果たす。

 小林旭の「渡り鳥」「流れ者」、赤木圭一郎の「拳銃無頼帖」シリーズが、同工異曲の無国籍アクションと言われながらも、多くの男性観客の心を掴んだのは、ヒーローの好敵手をディティール豊かに演じた宍戸錠のユニークな個性によるところが大きい。1960年の年末には、全国の映画館主たちの要望もあり、宍戸錠の“ダイヤモンドライン”参加が決まっていたという。

 一方、吉永小百合と浜田光廣(光夫)が初コンビを組んだ青春映画『ガラスの中の少女』(1960年・若杉光夫)は、小品ながら翌年からの日活青春映画黄金時代の芽生えともいうべき佳作。川島雄三門下の今村昌平も『にあんちゃん』(1959年)や『豚と軍艦』(1961年)などの問題作を発表。蔵原惟繕も裕次郎映画から、モダンなタッチのミステリーや、ジャズをフィーチャーした野心的な作品を次々と発表。ハリウッドリメイクの話もあった蔵原作品『ある脅迫』(脚本の川瀬治は、瀬川昌治監督のペンネーム)も1960年に作られている。

 明けて1961(昭和36)年1月、前年暮れに北原三枝と結婚したばかりの裕次郎がスキー場で骨折、半年間の休養を余儀なくされる。その時裕次郎が主演する予定だった新作『激流に生きる男』を引き継いだ赤木圭一郎は、2月14日、その撮影中に撮影所でゴーカートの試乗中に事故をおこして、2月21日に帰らぬ人となってしまう。

 石原裕次郎、赤木圭一郎の二人が欠けてしまった“ダイヤモンドライン”に、宍戸錠と二谷英明が参加し、アクション路線の継続が決まったのが3月末のこと。それ以前に決まっていたとはいえ、錠の主演昇格により、小林旭とのコンビは自然解消。好敵手が変わって「渡り鳥」「流れ者」シリーズの質的変化は、それまでのルーティーンを楽しみにしていた観客にとって、微妙な印象をもたらしていく。

 とはいえ宍戸錠と二谷英明共演の『ろくでなし稼業』(1961年)は、「渡り鳥」で宍戸錠のコミカルさを引き出した斎藤武市監督の快調な演出もあってスマッシュヒット。以後、しばらく、日活はアクション・コメディ路線を進むこととなる。

アクションと青春映画 1962年〜1966年

 日活創立50周年を迎えた1962(昭和37)年初頭、時代を担う若手スターとして、浜田光夫、高橋英樹、吉永小百合、松原智恵子、和泉雅子、田代みどりによる“日活グリーンライン”が結成された。

 浜田光夫と吉永小百合は、前年の石坂洋次郎原作の『草を刈る娘』(1961年・西河克巳)が好評で、1962年の『キューポラのある街』(浦山郎)、『赤い蕾と白い花』(西河克巳)で瑞々しい演技を見せ、二人は“純愛コンビ”として、次々と共演作が作られることとなる。

 第五期ニューフェースの高橋英樹も、アクションから青春ものまで幅広いジャンルに出演、1960年の“ミス16歳コンテスト”をきっかけに入社した、松原智恵子もまた、裕次郎作品の相手役となった浅丘ルリ子に変わって、新しい小林旭映画のヒロインとして、スクリーンで可憐な姿を見せてくれた。

 1962年2月には、創立50周年、撮影所誕生9周年を記念して、撮影所の広大な土地に、パーマネントのオープンセットの第一期工事が完了。“日活銀座”と呼ばれたこのセットで最初に撮影されたのが、石原裕次郎と浅丘ルリ子の『銀座の恋の物語』(蔵原惟繕)だった。併映は、坂本九の大ヒット曲をフィーチャーした、グリーンライン総出演の『上を向いて歩こう』(舛田利雄)。いずれも、監督の個性が最大限に活かされた佳作だったが、同時に、レジャーの多様化により、映画館への動員数が前年度より現象、ヒット歌謡曲の映画化でしか集客が望めなくなりつつある現実もあった。

 『銀座の恋の物語』は、婚約していた裕次郎とルリ子の恋人たちに立ちはだかるハードルを、ルリ子の記憶喪失と設定。二人が共有していた筈の過去を取り戻す裕次郎の現在の戦い、という点ではメロドラマながら、のちのムードアクションの萌芽的作品となった。この脚本を手掛けた山田信夫は、蔵原監督とのコンビで、裕次郎とルリ子の『憎いあンちくしょう』(1962年)『何か面白いことないか』(1963年)、芦川いづみがチャーミングな『硝子のジョニー 野獣のようにみえて』(1962年)といった良質な作品が次々と誕生する。

 石原裕次郎は、自身が納得する映画作品を製作したいという思いから、1963(昭和38)年、石原プロモーションを設立。ヨットで単独大西洋横断を成功させた堀江謙一青年の航海を、市川崑監督が描く『太平洋ひとりぼっち』(1963年)を発表。高い評価を受けることとなる。しかし映画界の斜陽は加速度的にスピードを増し、邦画各社ともに興行成績はダウンを続けていた。

 さしもの“太陽の子”裕次郎映画にも翳りが見えてきたと思われた頃、舛田利雄監督による『赤いハンカチ』(1964年)が登場。三十代を迎えた裕次郎と、大人の色香を湛えた浅丘ルリ子による日活ムードアクションというジャンルが確立。『夜霧のブルース』『二人の世界』『帰らざる波止場』といった、裕次郎の甘い歌声と、日活映画ならではの“失われてしまった過去を取り戻すための現在の戦い”を描くロマネスクが展開。

 一方、吉永小百合と浜田光夫コンビの青春路線は、1963(昭和38)年から1965(昭和40)年にかけて続々と作られてゆく。1962年に歌手デビューを果たし、橋幸夫との「いつでも夢を」で同年の日本レコード大賞を受賞した吉永小百合は、かつての裕次郎同様、ヒット曲が映画化され、映画から新たなヒット曲が生まれるという状況のなか、1960年代後半も青春路線も進んでゆくこととなる。

 また日活得意の青春映画に青春歌謡をフィーチャーした舟木一夫映画もドル箱となる。『学園広場』(1963年)から1969(昭和44)年の『青春の鐘』まで16本の舟木一夫映画が作られた。

 戦前の日活アクターズバンドのように、若手俳優で結成されたヤング・アンド・フレッシュ(山内賢・和田浩治・杉山元・木下雅弘)も折からのビートルズ・ブームに乗って『青春ア・ゴー・ゴー!』(1966年)などの音楽映画に出演。

 そして1965(昭和40)年、青山学院大学空手部出身の若者が、宍戸錠の『あばれ騎士道』(小杉勇)でデビューを果たす。その名は渡哲也。日活は新世代の石原裕次郎として渡を売り出すべく、あの手この手の企画を立てることとなる。

ニューアクションと新たな時代 1967年〜1971年

 1960年代後半になると、テレビの脅威はさらに強くなり、かつては観客で溢れていた映画館に空席が目立つようになっていた。映画人たちは“映画ならではの企画”を模索、テレビでは出来ないことを常に考えていた。かつては饒舌にコミック・アクションでユーモアを振りまいていた“エースの錠”こと宍戸錠も、『野獣の青春』(1963年・鈴木清順)の延長にあるハードボイルド路線へとシフト。野村孝の『拳銃は俺のパスポート』(1967年)での殺しのプロフェッショナルぶりは、虚構としての日活アクションの集大成でもありパロディでもある鈴木清順の『殺しの烙印』(同)でシニカルな笑いを生む。

 この時期、東映では高倉健、鶴田浩二を中心とする任侠路線がヒットを続け、日活も高橋英樹の「男の紋章」シリーズや、小林旭の着流しやくざもの、裕次郎の任侠映画などが作られていた。『紅の流れ星』を成功させ、渡哲也で続篇を考えていた舛田利雄は、会社から“やくざもの”と命じられて、実在の暴力団幹部だった藤田五郎の原作による『「無頼」より 大幹部』(1968年)を手掛ける。ここで渡が演じた人斬り五郎は、1960年代末の時代の閉塞感を打ち破るヒーローとなり、そのリアルな描写も含めて、時代の象徴となった。アクションもそれまでのようなカッコいいものでなく、ぶざまで、主人公が痛みに苦しみながらのたうち回る姿を描き、それが観客の共感を呼び、シリーズ化された。

 「無頼」シリーズは、やはり舛田利雄門下の小澤啓一が引き継ぎ、全6作(第3作は江崎実生)が作られ、渡哲也にとっても新境地となった。小澤と渡のコンビは続いて『前科 仮釈放』(1969年)を手掛け、これもシリーズ化されるが、映画界はもはや斜陽に歯止めがかからなくなっていた。

 そうしたなか、長谷部安春は、小林旭、宍戸錠はじめ日活男優総出演の『縄張はもらった』(1968年)で集団抗争アクションを確立、続く『野獣を消せ』(1969年)では、一見、渡哲也のプロハンターvs藤竜也たちの暴走族、という図式のヒーローものでありながら、悪役である暴走集団をイキイキと描き、それが1970年の『女番長 野良猫ロック』にはじまる「野良猫ロック」シリーズへと発展。これらは日活ニューアクションと呼ばれることとなる。

 その第2作『〜ワイルド・ジャンボ』を手掛けた、藤田敏八は、長谷部の集団抗争アクションに対して、若者たちのユートピア幻想を描いた。かつての日活ヒーローのように、現在の自分を至らしめている過去に向き合い、立ち向かい、克服するのではなく、“ここでないどこかへ”自由に飛び去ってしまおうとする。それもまた時代の感覚だった。藤田は、渡と原田芳雄の『新宿アウトローぶっとばせ』(同年)や『野良猫ロック 暴走集団’71』(1971年)でユートピア志向を追い求めた。

 一方、裕次郎は、畢生の大作『黒部の太陽』(1968年・熊井啓)を大成功させ、石原プロモーションの社長として精力的に映画製作に乗り出す一方、日活のトップスターとして、オールスターによる『嵐の勇者たち』(1969年)に主演。相変わらずの風格を見せていたが、もはやスターの映画は時代の中心ではなくなっていた。

 結果的に日活最後の一般映画となったのが、藤田敏八の『八月の濡れた砂』(1971年)だった。湘南、ヨット、若者たち。この映画で描かれているのは1970年代の最新の風俗だったが、同時に『狂った果実』(1956年)のリフレインでもあった。この作品の初号試写が撮影所で行われた時、エンドマークの出ないラストに、撮影所スタッフから大きな拍手が巻き起こったという。その年の11月、日活はロマンポルノへと路線を変更、日本映画の一つの黄金時代は、『八月の濡れた砂』で幕を閉じることとなった。

 それから半世紀、数多くの日活映画が、リアルタイム世代だけでなく、遅れて来た世代にも愛され続け、常に新しいファンを生み出している。それはいつの世にも変わらない青春の光と影を、魅惑的なダイアローグで語り、俳優たちがイキイキと、ポジティブに演じているからに他ならない。

 日活映画は、アクション、青春に限らず、主人公たちが饒舌に語り、悩みや問題を克服し、常に前進していく。その一貫したスタイルが大きな魅力となっている。

CD「日活100年101映画」2012年より


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