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喜劇の神様・齋藤寅次郎 戦前篇

 1922(大正11)年、齋藤寅次郎は松竹キネマ研究所(蒲田撮影所)に入所。1926(大正15)年にわずか22才で監督デビュー。『鈍急之進』(1926年1月30日)、『渦巻く血刃の情火』(1926年2月14日)と二本の映画を撮り、いよいよ監督として一本立ちする。それが「桂小五郎と幾松」(1926年5月25日)だった。これは森野五郎が桂小五郎に扮した時代劇だが、時代劇を大真面目に撮っても、深刻なシーンのはずなのに、試写でスタッフや首脳陣に大受け。城戸四郎撮影所長いわく「なかなか評判がいいぞ、あの脚本はまともに撮ったんじゃ見られたもんじゃない。喜劇仕立てにしたことは大成功だったな」と賞讃。

 斎藤寅次郎は、松竹蒲田時代にナンセンス喜劇を連打。その喜劇時代は、清水宏と共同監督の『不景気征伐』(1927年)と単独演出の『浮気征伐』(1928年)の二本から始まる。サイレントからトーキーにかけて、松竹蒲田でおよそ100本近くのナンセンス喜劇を演出。例えば、ハリウッド映画『西部戦線異状なし』(1930年)が近日公開と知るや、登場人物すべてが“どうかしている”価値観が逆転の喜劇『全部精神異常あり』(1929年)を忽ち作ってしまう。RKOの『キング・コング』(1933年)の公開直前には、『和製キング・コング』(1933年)を即席で作り上げる。

 松竹蒲田撮影所長・城戸四郎は「齋藤のはテンポがある、タッチがフレッシュだ。コスチューム・プレイなんかでも、かなりおもしろいものがある。それから肝心なのはアクションだ。アクションの畳み込みがうまい。そういういくつかの点で、彼のナンセンスものは成功した。いまでも彼の喜劇は、他の追随を許さぬものがひらめいている」と回想している。

斎藤寅次郎監督

【明治38年(1905)秋田県で誕生】

 1月30日 秋田県由利郡矢島町舘町3で役場収入役の斎藤孝一郎次男として出生。母は隣村の豪農の娘。8兄弟の次男。

 一年に一度、活動写真の巡業が楽しみ。「尾上松之助の忍術」「新派大悲劇」「アメリカの短編喜劇」。三日興業のうち、一日は見せてもらえるが、毎回はダメ。ならばと、宣伝の街回りの旗持ちを志願。ところがそれが、親戚にバレて、お母さんが本家に呼び出されて「教育が悪い」と怒られてしまう。お母さん「お金やるから、旗持ちだけはやめてくれ」。これが映画への目覚め、となった。

【大正八(1919)年】

 高等小学校卒業目前に、貧しい親を苦しめてまで進学しても意味がない、と上京を決意。親戚の病院の書生となる。しかし、素行不良が問題となり、田舎のお父さんが呼び出されて、秋田に連れ戻されることに。ところが上野駅のホーム、出発間際に汽車を飛び降りて東京に残る。そこで浅草のホームレスにうどんをごちそうになったり、と映画さながらの体験をして、浅草象潟町の小林医院に飛び込みで書生となる。そこで働きながら、明治薬学校に通うも、通学途中に浅草六区があり、映画熱がぶりかえして、サボることしばしば。

【大正九(1920)年 映画の世界へ 長崎からマラソンで帰京】

 やがて中退して、星製薬宣伝部に入社し、映写技師の講習を受けて、「活動写真隊地方巡業部」で九州巡回上映に励む。ところが「完成されたフィルムを上映するよりも、フィルムを作る人になりたい」と思って、上京を熱望。ただし汽車賃が勿体ないので、新聞に出ていた「長崎〜東京間マラソン」に参加することに。〆切はとうに過ぎていたが、田舎の中学で選手だったと口から出任せで参加。なんとマラソンで東京に! 後年作る『明朗五人男』(1940年・東宝)では、先生の家に行く着物を質屋に入れてしまったので、仕方なくランニング姿でマラソンする、というギャグがあったが、その発想はここにあるのかもしれない。

【大正十一(1922)年 松竹蒲田入社】

 叔父で美術家の斎藤佳三の紹介で、松竹キネマ研究所(蒲田撮影所)に入所。大久保忠泰監督の下で助監督に。一年後輩に小津安二郎。その頃、撮影所の隣に借家して、清水宏が家長で「蜂の巣」なる、撮影所スタッフの共同生活を開始。これも『明朗五人男』で再現されている。

【大正十五(1926)年 わずか22歳で監督デビュー】

 大久保忠泰監督との共同監督で、『鈍急之進』(1926年1月30日・松竹蒲田)『渦巻く血刃の情火』 (2月14日・松竹蒲田)の二本の映画を撮り、いよいよ監督として一本立ちする。時代劇を大真面目に撮っても、深刻なシーンのはずなのに、試写でスタッフや首脳陣に大受け。城戸四郎撮影所長いわく「なかなか評判がいいぞ、あの脚本はまともに撮ったんじゃ見られたもんじゃない。喜劇仕立てにしたことは大成功だったな」と賞讃した。

 昭和2(1927)年 、初の喜劇映画『不景気征伐』(渡辺篤主演)を清水宏と共同監督で演出。世界大恐慌直前、庶民の生活は苦しく、やりきれない時世に、明るい笑いをと、脚本は赤穂春雄(城戸四郎)の号令で演出。

 たまたま渡辺篤の格好が失業者を連想させたので、「空腹劇」を思いつく。焼鳥屋の屋台のそばに、労務者が捨てた串を犬がくわえている、それをみていたホームレス、犬から串をうばうが、犬の反撃を受けてしまう。しかし、怒ったホームレス、犬に噛み付く。犬は全治一週間の大けがで新聞に出る。

 続いて単独監督作として『浮気征伐』(1928年・星光、岡村文子、吉川満子、堺一二、坂本武)を発表。齋藤寅次郎ナンセンス映画時代が幕を開ける。

 『全部精神異常あり』は、レマルクの小説をルイス・マイルストン監督が演出したユニバーサル映画『西部戦線異状なし』(1930年)の公開がせまるなか、急遽作られた珍作。タイトルだけの発想で、登場人物がすべて常識の枠を超えており、価値観もモラルもすべてひっくり返したナンセンス劇。

 この発想は、戦後の『誰がために金はある』『誰よりも金を愛す』へと継承されていく。この他、和製チャップリン・小倉繁を登場させた1932年には、『チャップリンよなぜ泣くか』(松竹蒲田)を作ったり、ハリウッドで『キング・コング』(1933年9月1日・日本公開RKO)が作られヒットの報を受けるや、すぐに『和製キング・コング』(1933年10月5日・松竹蒲田)を演出するなど、戯作者精神を発揮。

 そうしたなか、自身の代表作『子宝騒動』(1935年3月21日・松竹蒲田)、『この子捨てざれば』(1935年8月8日・松竹蒲田)を発表。いずれも、時局にあわせた「産児制限」もの。

 『子宝騒動』は、当初「産児無制限」との題が付けられていたが、当局への配慮で、改題。奥さんが産気づいたのに、産婆に払う金がないので、逃走した子豚にかけられた懸賞金のために奮闘努力する。戦後の『お父さんはお人好し 産児無制限』(1956年2月19日・大映京都)はこの時の因縁でつけられたタイトル。

 『この子捨てざれば』は、「キネマ旬報ベストテン」の7位に。女房に逃げられて、子供を捨てようと思った男(小倉繁)が、次々と捨て子を拾ってしまい、子供たちを立派に育て上げる。そして、その娘のお産にやってきた産婆さんは、なんと別れた女房! 祖母が孫を取り上げるという感動のラスト。寅次郎のナンセンスとペーソス。喜劇と悲劇の隣り合わせのスタイルは、戦後の作品にも貫かれていく。寅次郎の信念のような作品。後年の作品で、離ればなれになった母子(もしくは父子)が、紆余曲折あって再会するという、寅次郎お得意のパターンの原点となった。

 『新婚三塁打』は、野球をテーマにしたナンセンス映画。野球好きの表具師・亀さん(小倉繁)の物語。第一回戦は「少年野球VS盲啞学校」、第二回戦は「VS養老園」、第三回戦が「対僧侶軍」・・・ 松竹蒲田のニュース部がすわ特ダネと色めいたのが、「今、三島の原で坊主が野球をしている!」と、この映画の撮影だった。

 トーキー時代になっても寅次郎は、サウンド版に拘っていた。「僕の喜劇に生仲な擬音や、言葉を付加しても、果たしてそれだけの効果があるか疑問である」とあくまでもヴィジュアルのギャグにこだわっていた。そんな寅次郎がトーキー第一作『女は何故怖い』(1936年4月15日・松竹大船)を手がけてほどなく、昭和13(1938)年に東宝へ移籍する。

【昭和十二(1937)年 東宝へ!】


 この頃、P.C.L.が東宝となり、作品数も増加。松竹のトップスター、林長二郎が東宝に引き抜かれ、長谷川一夫と改名『藤十郎の恋』(1938年5月1日)から華々しく映画に出演。その監督に指名されたのが、エノケン映画などを手がけていた山本嘉次郎監督。となると、がぜん喜劇監督が手薄になる、そこで寅次郎に白羽の矢が立った。吉本興業と提携して、喜劇路線をさらに増強しようとしている東宝としては、喜劇人は揃っても監督がいない。一方、寅次郎にしても「(松竹には)喜劇専門の演出家はいても、企画も俳優もない」そこへ目をつけたのが、プロデューサーの滝村和男だった。寅次郎は『母の勝利』(1937年11月25日)を最後に松竹から東宝へ移籍。

 昭和13年から、東宝のフィルモグラフィに、齋藤寅次郎の名前が登場する。エノケン一座、ロッパ一座、そして吉本興業との提携は、後の渡邊プロダクション、ジャニーズ、そして吉本興業との提携のルーツでもある。「喜劇の神様」として齋藤寅次郎は、その戯作精神を大いに発揮することになる。

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