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『百萬人の合唱』(1935年1月13日・J .O.スタジオ=ビクター・富岡政雄)

 J.O.スタジオは、京都の輸入商社・大沢商会の大澤良夫社長が、昭和8(1933)年に京都蚕ノ社前に建設した2千坪の規模の貸しスタジオ、大沢商会は大正時代からアメリカの映画撮影キャメラ「ベル・ハウエル」やプリンターを輸入、日活や松竹に販売する代理店で、大澤良夫社長は来るべきトーキー時代に向けて研究を続け、自らトーキー・スタジオを建設した。J.O.スタジオは、導入したトーキー「ジェンキンス・システム」「J」と「大沢商会」「O」に因んだもの。

 時を同じくして、昭和8(1933)年、東京市世田谷区砧村に創設されたP. C .L.映画製作所が大沢商会と業務提携、第一作『音楽喜劇 ほろよひ人生』(1933年・木村荘十二)を製作。京都のJ.O.スタジオも自主制作をすべく、日活太秦撮影所でキャメラマンをしていた円谷英二を撮影技術主任として招聘した。

 僕らにとって「特撮の神様」となる円谷英二は、常に創意工夫の人、松竹下加茂撮影所時代に自費で移動撮影車や木製クレーンを製作したり、「アイリスイン・アイリスアウト」「フェイドイン・フェイドアウト」などの撮影手法を日本映画に導入したのも円谷。日本初のスクリーン・プロセスの開発を進めていたが、スターだった市川百々之助の顔を「ローキー照明」で影を作り、日活幹部の逆鱗を買って退社。そうした特殊技術への探究心と技術に刮目した大沢善夫社長が声をかけたのだ。
 
 そして昭和10(1935)年、P .C .L.の音楽映画の成功を受けて、J .O.スタジオ第一回作品『百萬人の合唱(コーラス)』が企画された。当時、レコード業界で破竹の勢いだったビクターと提携、ビクター専属の人気歌手をフィーチャーした、ハリウッドの「音楽バラエティ映画」のスタイルを目指した。これはビクターにとっても最大のパブリシティチャンス。レコードやラジオのみでしか知られていない専属歌手たちの「顔」「歌う姿」をスクリーン上映することは最高のプロモーション。レコードの売り上げにダイレクトに結びつくタイアップだった。

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 監督は、日本映画初のトーキー音楽映画『マダムと女房』(1931年・松竹蒲田・五所平之助)の助監督を務め、松竹蒲田でトーキー製作の現場を支えてきた富岡敦雄が、やはり大澤社長の声がけで抜擢された。原作はJ. O.スタジオ=ビクター文芸部。ビクターの営業サイドとJ. O.の製作サイドの合議によって作られた。今の映画製作委員会のようなシステムが既に導入されていた。富岡監督と共同脚本の山名義郎もこれが初めてのクレジット作品となる。

タイトルバック。P.C.L.映画同様、出演者たちの顔と役名が次々と登場。ここで観客が、スターの顔と名前を一致させることができた。

J .O.スタヂオ 日本ビクター 共同作品
監督 富岡敦雄
作曲編曲並音楽監督 飯田信夫
撮影 圓谷英二
衣装調製 髙島屋

青木美子  東宝・夏川静江
三宅ハル子 東宝・伏見信子
三宅登起子 北原幸子
明星淑女倶楽部員 東宝・芝うらら

詩人・南修一 伊達信
調律師・田山純 徳山璉

ビクター四人娘 静ときわ・滝田菊江・静みどり・渡辺浜子
特別出演・日本ビクター専属歌手 小唄・勝太郎
特別出演・日本ビクター専属歌手 小林千代子
特別出演・日本ビクター専属歌手 藤山一郎
特別出演・日本ビクター専属歌手 ヘレン・隅田
特別出演・日本ビクター専属歌手 中山梶子
特別出演・日本ビクター専属歌手 浅草・市丸

 錚々たるメンバーが顔を揃えている。これが松竹だと、自社のスターを中心にキャスティングして、ゲストは彩りという作り方になるが、新創設の映画会社なので、その縛りがない。といっても自社スターはまだいないのだが。主演の徳山璉さんは、日本を代表するバリトンの声楽家で、ビクターが誇る流行歌手。「叩け太鼓」(1930年)「侍ニッポン」「ルンペン節」(1931年)など、そのわかりやすい歌声はラジオ時代にふさわしく、豊かな表現力は、ユーモラスなキャラクターイメージを醸成。この年の秋には古川ロッパとの舞台「唄ふ弥次喜多」(1935年)で、堂々たるコメディアンの仲間入りを果たす。

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 徳山璉さん演じる田山純は、ピアノの調律師をしているが、声楽家、音楽家として大成する夢を抱いている。その相棒の詩人・南修一を演じているのは、築地小劇場から東京左翼劇場で活躍していた新劇俳優・伊達信。昭和9(1934)年には村山知義の新協劇団に参加。この頃の映画人、演劇人同様、バリバリの左翼であった。やはり大澤良夫社長に抜擢されて、これが映画初出演となった。

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 この売れない声楽家と、目のでない詩人のコンビが、貧しくとも楽しくアパート暮らしをしている。このアパートのセットはJ. O.スタヂオに組まれた最初の建物で、アパートというにはかなり大きい。映画の冒頭、朝、二階の廊下のバルコニーで、田山純(徳山)が歯磨きをしながら自慢の歌を歌っている。円谷英二が開発したクレーン撮影で、ワンカットで階下の庭で洗濯をしている南修一(伊達)にパン移動する。そしてまた、二階の田山にキャメラが移動。フランスのルネ・クレール監督『巴里の屋根の下』(1930年)で、ロシア人の美術家・ラザール・メールソンが作った街並みの巨大セットをキャメラが縦横に動くイメージを意識したものだろう。本作の美術は、帰山教正の映画芸術教会出身のベテラン吉田謙吉が手がけている。随所にデザインを凝らしたワイプが入るが、これも円谷の創意工夫なればこそ。

 戦前のP. C .L.映画を続けて見てきていると、この円谷英二によるクレーンショットがどれだけ斬新だったかがわかる。カットを割らずに、田山が歌い、南が会話をする。二人の親密な関係性が空間の中で表現されているのだ。そこへ屑屋がやってきて、田山は、少し中身が残っているビール瓶を買ってくれというが、屑屋は一本じゃと取り合わない。仕方なく田山はビールをコップに注いでグッと一息。また歌い出す。
 
 その屑屋のカゴには一冊の詩集が入っていた。南としては自分の詩集なので不憫で仕方がない。近所のマダムが出したと聞いて、その詩集を買い戻そうとする南。「お代はいりませんよ」

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 そこへ近所の令嬢・三宅ハル子(伏見信子)が「あら、私の!」と、その詩集を通して南と出会う。ボーイ・ミーツ・ガール。二人が恋に落ちることを予見させるシーン。伏見信子さんは、姉・伏見直江と、大正15(1926)年に帝国キネマに入社。その後、阪東妻三郎プロ、日活大将軍を経て、昭和8(1933)年に松竹蒲田へ。五所平之助『十九の春』小津安二郎『出来ごころ』(1933年)でスターとなる。そして昭和9(1934)年に東京宝塚劇場=東宝に移籍したばかり。なので「東宝専属」とクレジットされているが、この映画のあとすぐ、姉と共に新興キネマに移籍してしまう。小柄で清楚、チャーミングなルックス。エロキューションはいささかベタベタだが、とにかく可愛い。

♪幸福な朝(作詞・佐伯孝夫 作曲・飯田信夫)徳山璉

 そして田山だが、調律師として令嬢・青木美子(夏川静江)宅へ。そこで調律しながら、南が作詞、田山が作曲した「♪幸福な朝」を歌っていると、美子が興味を示して楽譜を手に歌い出す。まさに「幸福な朝」の出会いである。円谷英二のキャメラは、ピアノを弾く田山をフィックスで捉えるのではなく、部屋に入ってきた美子、二人のやりとりを自然な形で撮影している。これも他の戦前作品と比べると、空間を感じさせてくれる演出である。夏川静江さんも日本映画草創期からの女優で、弟・夏川大二郎さんと共に、帰山教正『生の輝き』(1919年)でデビュー。日活向島、東亜キネマ、日活で活躍。25歳となった昭和9(1934)年に東京宝塚劇場=東宝の専属となり、本作がその第一作となる。この映画が縁で、夏川さんは作曲家・飯田信夫さんと結婚することに。飯田さんは、クライマックスのステージに登場する小林千代子さんと婚約していたため、スキャンダルとなる。

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 田山と美子が楽しく歌っていると、そこへ美子の家にすむ「明星淑女倶楽部」の少女たち、ビクター四人娘(静ときわ・滝田菊江・静みどり・渡辺浜子)たちもコーラスに参加。楽しいひとときを過ごす。

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♪証城寺の狸囃子(作詞・野口雨情 作曲・中山晋平)

 続いて田山が調律に行ったのが学校。そこで聞こえてくる歌声は、ビクター専属の少女歌手・中山梶子ちゃんが歌う「♪証城寺の狸囃子」。タイトルバックには中山梶子ちゃんが登場するが現存するフィルムには登場シーンがない。京都のおっとりとした空気を画面から感じることができる。中山梶子さんは、平山美代子さんともに、ビクターの童謡歌手として「シャボン玉」などのレコードを次々と吹き込んでいた。

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 そして、田山は、この日のために精進してきた声楽家コンクールに出場。張り切りすぎて、落選してしまう。このシーン、歌うショットはあるが田山の声をあえて入れずに、サイレント映画のようにモンタージュで、落選までをテキパキと表現。コンクール会場に来ていた青木美子(夏川静江)から、彼女が主宰している女性だけの「明星淑女倶楽部」のパーティへ招待されて、田山は天にも昇る心地となる。

 上機嫌の田山、相棒・南を誘って「淑女倶楽部」へ。セレブ女性ばかりが集うサロン、という描写は、当時かなりハイソサエティというか「浮世ばなれ」していたヴィジュアルだが、円谷英二のキャメラは、ちゃんと出席している美女たちの美しい表情を捉えて、そのインサートにより、田山と南が「竜宮城の浦島太郎」のようにも見える。

♪可愛い眼(作詞・佐伯孝夫 作曲・ウォルター・ドナルドソン 編曲・井田一郎)

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 パーティのアトラクションとして登場するのは、カリフォルニア出身の2世少女歌手・ヘレン隅田さん。彼女は昭和9(1934)年4月19日、横浜入港の郵船・浅間丸で来日。この時17歳。ビクターの専属歌手として契約、昭和12年に帰米するまで、レコードやステージで活躍。クルクルとよく動く眼、豊かな表情で、まるで漫画映画のベティ・ブープのようだと評判だった。「可愛い眼」は、昭和9年9月リリースの彼女のデビュー曲で、”Yes Sir, That's My Baby”(作詞・ガス・カーン 作曲・ウォルター・ドナルドソン)のカヴァー。抜群のスイング感で歌い、後半のタップも見事! こうした伝説のアーチストのパフォーマンスの記録としても貴重である。

 このパーティで田山は美子から、歌って欲しいとリクエストされ躊躇するが、南の後押しで、歌うこととなる。

♪濡れ燕(作詞・湯浅みか 保作詞・佐伯孝夫 作曲・松平信博) 浅草市丸

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 続いて、アトラクションで歌声を披露するのは、芸者歌手・浅草市丸さん。昭和6(1931)年、ビクターから「花嫁東京」でデビュー。「ちゃっきり節」「青空恋し」のヒットを連発。小唄勝太郎と共に、鶯芸者の黄金時代を築く。ライバルとして「市勝時代」「勝市時代」を築いた。「濡れつばめ~お小夜恋慕の唄~」(作詞・湯浅みか 保作詞・佐伯孝夫 作曲・松平信博)は、昭和8(1933)年に発売されて大ヒット。昭和11(1936)年、松竹で『巷説・濡れつばめ』(二川文太郎)として映画化される。

 そして、いよいよ田山を、明星淑女倶楽部会員(芝うらら)が紹介。女性たちの前で披露するが、このシーンを省略。翌日の新聞報道が画面いっぱいに紹介される。「秋の楽壇異変 華やかに生まれた 驚異の歌手 ピアノ調律師 田山氏 ゆうべ“月見の夕”にバリトン・・・」

 その報道を観た、レビュー劇場の支配人から田山への出演依頼が来る。それに気を良くした田山は背広を新調、我が世の春を謳歌する。ところが親友・南は浮かない顔。クラシックの声楽家として名をなしたい田山は、南に「レビューの話、どうする?」と相談する。目先の幸福が真実のものとは限らないと、プロレタリアート丸出しの南は「誘惑か、世の中って誘惑が多いな」とシニカルな態度。

 スポットライトを浴びる田山への嫉妬もあって、田山から(ダンス)ホールに誘われた南「僕はホールなんて賑やかなとこは嫌いだ。作詞家なんて縁の下の力持ちだからな」と恋人・ハル子に愚痴を漏らす。愛称・ハコちゃんは、南が落ち込まないように懸命に励ます。

 やがて田山の人気は、ついにラジオ進出となる。「ただいまより、新作流行歌『恋知りそめて』を紹介します」とアナウンス。そこで田山、南作詞の「♪恋知りそめて」(作詞・西條八十 作曲・飯田信夫)をマイクの前で歌う。その晩、田山と南は久々に晩餐を囲んで、祝杯を上げる予定だった。ところがラジオ局の前に、美子と四人娘が来ていて、田山を晩餐に誘い、田山もそれに応じる。

 そうとは知らず南は、田山との晩餐に、恋人・ハコを誘う。ハコは、パーティのためにケーキやご馳走、酒を買い込んできて、南と田山のアパートで晩餐の準備をする。しかし、田山は1時間過ぎ、2時間過ぎても帰ってこない。そこでハコちゃん、南に「あたしたちも二人で宴会しない?」と提案。恋人たちの幸福な晩餐となる。そこで南、ハコにプロポーズ。しかしハコは少し考えて、顔を曇らせて「でも、あたし、このままでいたいの」

 まだ少女のあどけなさが残るハル子。そこでピアノを弾きながら乙女心を歌う。「結婚ってそんなに幸福かしら?」。意味深なことを言って、微妙な空気になったところに、酔って上機嫌の田山が帰ってくる。田山は、美子が田山の独唱会を開催してくれること。明日アパートを移ることになったことを伝える。その浮かれた様子に我慢がならない南は、田山に強烈なパンチを喰らわす。結局、二人は決別、田山は部屋を出ていく。このあたりドラマチックな展開なのだが、ハル子がなぜ結婚を拒むのか、南はなぜそこまで田山に怒りを覚えているのかが、雰囲気だけで明確ではない。

♪幸福な朝 徳山璉・ビクター四人娘・夏川静江

 田山の新居を整えながら、楽しく歌う女の子たち。夢のような空間(笑)しかし、田山は南のことが気にかかって元気がない。そこで美子は、今度の独唱会を田山と南の作品発表会にしたらどうかしらと提案。その演奏会が済んだら・・・四人娘が「結婚行進曲」をハミング。どこまでも田山は恵まれている。

 一方、南はハル子の姉・登起子(北原幸子)に結婚の承諾をもらいにいくが「今、しばらく、あの娘にそんなこと考えさせたくないの」と反対されてしまう。なぜ?その理由が明確ではないので少しフラストレーションが溜まる。脚本の問題なのだろうが、思わせぶりなだけ。意気消沈して出ていく南、ハル子は意を決して出かける支度をして、姉の制止を振り切って、南の元へ。

 美子の家のプレイルームで、四人娘がミニビリヤードを楽しんでいる。演奏会の前日。美子「明日の会のこと、南さんに話して?」。田山は当時になってサプライズにしようと思っていると。そこへ電話。「南さんとハコちゃんが家出したんですって!」。

 なんと南とハル子の家出は新聞記事になっている!「作品発表前夜に 詩人謎の家出 愛人と共に」。二人は郵船「バイカル丸」に乗っていることが判明。「明け方に出帆したから、まだ幾らも行ってないわね」。美子のモーターボートで追いかければ間に合うかも?となる。昭和10年、いくらお嬢様とはいえ、美子はどれだけの金持ちなんだろう? この浮世離れした感じが「まるで洋画のよう」だったのだろう。

 大阪港。客船や貨物船が停泊している。円谷英二のキャメラのアングルは、さすが、という感じの切り取り方。美子のモーターボートにはビクター四人娘と、明星淑女倶楽部の美女が乗っている。目指すはバイカル号。ロシア行きか? 疾走するモーターボートを正面から捉えたショットもカッコいい。これも円谷ショット。バイカル丸に乗り込んだビクター四人娘、ハル子の肩に手を回している南に「両名を逮捕しますわ。百万人の合唱(コーラス)がお二人をお待ちしておりますわ」。となかなか粋なセリフ。これも「まるで洋画のよう」な展開。

本日午後六時半 田山純 南修一 作品発表演奏会

いよいよステージの開幕である。

♪僕の青春(作詞・佐伯孝夫 作曲・佐々木俊一)藤山一郎

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 トップバッターは、藤山一郎さん。東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部)を主席で卒業した本格的クラシックの声楽技術を持ったテナー歌手。昭和6(1931)年「酒は泪か溜息か」(作詞・高橋掬太郎 作曲・古賀政男)、「丘を越えて」(作詞・島田芳文 作曲・古賀政男)が大ヒット。ジャズと流行歌、そしてクラシックを見事に歌い分けて戦前を代表するトップ歌手となる。ビクター専属でリリースした「燃える御神火」(作詞・西条八十 作曲・中山晋平)は187,500枚を売り上げ、この「僕の青春」(作詞・佐伯孝夫 作曲・佐々木俊一)は、昭和8(1933)年にリリースされ、100,500枚の大ヒット曲となる。この映画の翌年昭和11(1936)年、テイチクに移籍「東京ラプソディ」(作詞・門田ゆたか 作曲・古賀政男)はシティソングの新時代を拓く事になる。

♪島の娘(作詞・長田幹彦 作曲・佐々木俊一)勝太郎

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 昭和7(1932)年12月20日にリリース。芸者歌手、小唄勝太郎さんの代表曲。歌いだし「ハァ」で始まる「ハァ小唄」の先駆けとなり、同年大晦日のラジオ放送で勝太郎が「島の娘」を歌ったのがきっかけで、ビッグヒットとなった。ほとんどのファンが、この映画で勝太郎が「島の娘」を歌う姿を初めて観たことだろう。戦時下では、この「島の娘」は、内務省から「歌詞に問題あり」とされ、一番の歌詞が改変され、その後発禁処分、実演で歌うことも禁止されたという。この映画の翌年、勝太郎さんはJ .O.作品『勝太郎子守唄』(1936年3月26日・永富映次郎)に主演、ヒット曲を劇中で歌った。岸井明さんと藤原釜足さんの『うそ倶楽部』(1937年・P.C.L.・岡田敬)で、徳川夢声さん演じるお祖父さんが「勝太郎が出るから」とラジオの前で楽しみにしているシーンがあった。そういう庶民は多かったことだろう。

♪恋知りそめて(作詞・西條八十 作曲・飯田信夫)小林千代子

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 昭和9(1934)年11月リリース。この映画の主題歌「幸福な朝」のカップリングとして大々的に喧伝された。小林千代子さんは、東京音楽学校卒業後、新宿ムーラン・ルージュで初舞台を踏み、松竹楽劇部(のちの松竹歌劇団)に入団。水の江滝子やオリエ津坂の相手役を務めて大人気に。この映画の撮影時は、まだ財団中だった。ビクターに入社したのは昭和6(1931)年、当初は覆面歌手「金色仮面」としてデビュー。のちに小林千代子名義となり昭和7(1932)年、映画主題歌「涙の渡り鳥」(作詞・西条八十 作曲・佐々木俊一)で爆発的人気を得る。

 昭和9年8月「利根の朝霧」(作詞・佐伯孝夫 作曲・中山晋平)が大ヒット、その次にリリースしたのが、この「恋知りそめて」。流行歌だけでなく、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのミュージカル映画『空中レビュー時代』(1933年)主題歌「カリオカ」(日本語詞・原町みつを 作曲・ヴィンセント・ユーマンス)や、『コンチネンタル』(1934年)の主題歌「ザ・コンチネンタル」(作詞・佐伯孝夫 作曲・コン・コンラッド)なども吹き込んでいる。
 
 小林千代子さんといえば、この映画の音楽担当でビクター専属の作曲家・飯田信雄さんと婚約していたが、この映画で美子を演じた夏川静江さん奪われ、二人は結婚。その恋愛事件が大きく報道された。この映画の裏にはそんなエピソードもある。

 さて、ステージ・ショーの合間に、港から会場へ駆けつける南とハル子たちの車のショットがインサートされ、楽屋でヤキモキする田山が描かれる。しかし、この楽屋、藤山一郎さん、市丸さん、勝太郎さん、小林千代子さんと、豪華な顔ぶれ。みなさん品よく、椅子に腰掛けている。スターは普段でも気高く、品行方正。そんなファンのイメージを裏切らない。

♪幸福な朝(作詞・佐伯孝夫 作曲・飯田信夫)徳山璉

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 ようやく南とハル子が会場に到着。田山と南が抱き合って、友情を確かめ合う。二人の結婚も決まり、田山と美子もゴールインすることに。まさに幸福なエンディング。いよいよ、徳山璉さんがステージへ。舞台の袖から出てくるショットは、二階のバルコニーからの俯瞰気味で、他の映画ではフィックス中心だった舞台シーンが新鮮に感じる。イントロが終わり、歌いだすと、正体で捉えた徳山璉さんにクレーンがゆっくりと近づいていく。まさにライブ映像!という感じで、徳山璉さんが歌っている姿を捉えていく。

 楽屋では、曲に合わせて藤山一郎さん、勝太郎さん、小林千代子さんたちが「♪幸福な朝」を口ずさみ、舞台袖で歌っている、キャストの面々と合流。客席のリアクションもリズムに合わせてインサートされ、劇場中が大合唱となるにつれ、オーバーラップ、ワイプなどでアクセントをつける。さらに渦巻きのようなアニメーションがオーバーラップされて、不思議なヴィジュアルとなる。これも円谷演出だろう。

 J .O.スタジオは、昭和10(1935)年11月21日公開の第二回作品『かぐや姫』(田中喜次)を製作。円谷英二が撮影を手がけ、藤山一郎さんが宰相役で美しい歌声を披露。1936年にロンドン日本協会の要請で国際映画協会の監修で33分の短縮版が製作され、イギリスでも上映された。長らくフィルムの所在が不明だったが、2015年に英国映画協会(BFI)に保存されていることが明らかになり、2021年9月、国立映画アーカイブで上映されることになった。



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