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藤井新棋聖誕生によせて〜世間と棋界の温度差〜


 昨日は歴史的な日になった。何をするにしても手がつかないくらい、将棋に見入ってしまった。

 藤井聡太七段が最年少、17歳で将棋のタイトルの一つである「棋聖」を獲得したのだ。普段あまり注目されることのない棋界のニュースも、この日ばかりは世間のどのニュースよりも大きく、トップで報道された。価値として高いのだろう。そして世間の耳目も集めやすい。29連勝を達成した時が第一フィーバーとすれば、これは第二フィーバーの始まりだろう。報道を目にした一般人の関心や熱量はこれから高まっていくと思われる。またそれを讃える報道や記事、番組もこれから沢山目にするだろう。

 だが、将棋ファンや棋士、棋界の関係者としては、藤井七段がタイトルを獲得するのは既定路線だった。羽生九段がコメントを寄せている通りだ。これまでの戦いぶりを見ていればわかる。だからこのニュース自体、それほどの驚きを持って受け止めているわけではない。むしろ世間が騒いでいるのを客観的に眺めているように思う。例えば棋士たちが藤井新棋聖のニュースに対し一見冷静なコメントをしているのは、感動や驚きのピークはそれより遥か前に来ていたからだ。

 思えば、将棋というゲームがそういう性質のものだ。通常、勝敗が決まるのはどちらかが負けを認めた時だ。だが、負けましたと宣言するギリギリまで勝敗がわからないか、というとそんなことはない。大抵の場合はもう少し前に局面の優劣が判明していることが多い。だから、棋士たちは勝った負けたの瞬間でも一喜一憂はしない。心の準備を整えてその瞬間に臨んでいるからだ。それを見守る関係者も然りだ。

 勝敗を分けた瞬間の手というのは、勝敗を宣言するより前におこり、それが棋士たちにとっての、将棋を観戦しているものたちにとってのハイライトである。それは流れの中で生まれる。お互いの指し手が凌ぎを削りあって初めて生まれる。混沌とした中、積み重ねてきたものと閃きで、目を見張るような一手が指される。そこに価値がある。それこそが驚きであり、感動の瞬間だ。それはやはり戦いを見届けていないとわからない。結果だけ見てもわからないのだ。

 史上最年少タイトル獲得という報道はセンセーショナルで、それによって心を動かされる人はいるだろう。誰しもが17歳だった自分の頃を思い返しながら、あるいはこれから17歳になる自分を想像しながら、ここまで世間を揺るがすことを成し遂げれたか自問自答する。もちろん、そんなことは叶わない。だから、スゴイ!と思う。

 しかし、藤井聡太本人は最年少タイトルにはこだわっておらず「良い将棋をファンに見せれれば」「とにかく良い将棋を指したい」と謙虚に語る。そして本棋戦は全て、どの試合も見応えがあり、名局揃いだった。対藤井聡太戦はそうしたドラマが数々生まれていて、同じプロ棋士ですら唸らせる。それが本当に素晴らしいことだ。

 何が言いたいかというと、タイトル獲得の感動の先に、いや前に、もっともっと物凄い別の感動が既にあったのだということ。それは実は報道では全く伝わっていないし、多くの人は理解していない、と思う。感動の上澄みだけをすくっている。もっと濃いものは下に沈殿している。

 だから、仮に今後藤井棋聖が史上空前の8冠制覇を成し遂げたとしても、おそらくその感動のピークは、棋界ではもっと前に訪れているだろう。世間の感動は、多数派ではあるが、ちょっとズレている。今もこれからも。
 


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