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鬱ばっかり

あの人もあの人も、あの人まで!?結局みんな鬱やないですか!の時代に生きていて、最近(というか昨日)、マイク・ミルズのfireworksという鬱と診断された彼が抗うつ剤を飲むのを拒否した時の作品集をメルカリで買ったのです。デビット・リンチもそうだけど、鬱になった時に薬を飲まない選択をした人への興味と、マイク・ミルズの映画はなぜかたいてい観ていたのと、やっぱり薬はちゃんと飲んだ方が幸せなのか?たとえばタロットみたいな哲学で治せたりするのか?知りたくて、というか考えたくて、届くのを楽しみに待っています。

同じく最近のこと。you tubeで水道橋博士の顔を久しぶりに見たことと、寺門ジモンのチャンネルで、ダチョウ倶楽部の三人が焼き肉を食べている動画を見たのとで、人間が鬱になるのはなぜなのか?死を選ぶのはどうしてなのか?ちょっと真面目に考えていたら、自然と、ジモンはあの年齢でどうしてあんなに元気なのか、なぜあそこまで肉を食べることができるのかが知りたくなって、漫画ネイチャージモンをまとめ買いしました。この漫画、私の予想をはるかに超えておもんなくて、ついまとめて買ったけれど全然読み進めなくて、でも家に置いておきたくなさすぎて困ってます。ジモンの元気な理由は分かりました。漫画を読まなくても彼のyou tubeで十分伝わってくることでした。

たかが痔の手術で大袈裟だという人もいるだろうけれど、実際にあれを、マジで経験した人たちにはわかってもらえるはずです。ヒロシです、のヒロシもやりたいことやって生きようと痔の手術で決心したそうです(何情報やねん、笑)。
人生は思っているよりも短い可能性があり、病気や死について、自分の意志でどうにかできることはほぼないこと(術後に夕飯を食べるかどうかでさえ、私にはどうにもできなかったのだから!) を知る前と後では生き方は絶対違ってくる。

自由に何かを選択できる場合も、肉体的に若く健康である場合に限られていることが多いのだ、これだって気づいていなかった。ボッシーでマッチョで家父長制を生きてるような男の人が、フェミニズムで救われるような女の子が生きてる世界の景色に死んでも気づかないのと似てる。属している国や社会の規則が、個人の意思よりも圧倒的な意志を持っていたという現実を体験するチャンスが私の場合痔の手術であり一泊二日の入院だったのです。

「傷口が開いて大量に出血しないように、(癌ではなかったが、そもそも病院にいく理由となった、痔とはまったく別のしこりを)切って縫ったのが開かないように安静にしてください」先生からそう言われていました。今すぐ退院できるならお安い御用で、いくらでも安静にします!という気持ちだったし、実際そうしていました。薬は量と時間を守ってきちんと飲みました。決められたルールを守ることは合理的だと思っていたからです。だけど実際は違ってた。
頭は普段と同じように動いていて、薬は大量に飲みながら、肉体はまるで動かさない状態を続けるとどうなるか?退院後7日目くらいだったと思います。急に体が固く重くなり、かつての鬱の入口にいるような、自分の意志が通用しなくなる不安を感じました。
ふとした事故や怪我がきっかけで鬱になる人たちのことを思い出し、ちょっとくらい出血してもいいから歩こうと決めました。
歩いてみて大丈夫だとわかってからは、朝も夜も歩きました。ただ歩く、何も考えない。音楽も聞かない。スマホも持たない。毎日少しずつ、ゆっくり歩く時間を増やしていく。この胡散臭い宗教みたいなアイデアは、それでも過去の経験から得た自分の知恵なので、自分の体にも心にもたいてい効きます。病院からもらった薬は、軟膏と緊急用の下剤を除いてぜんぶ捨てました。

何もする気が起きない時や、コンロールできないほどの無気力になってしまう時に、ただちょっと歩くみたいなことができたら、本気の鬱にはならないのかもしれない。釣りでも、山登りでも、水泳でもいい、瞑想でもヨガでもいいと思います。そういう時間に、自分の人生史上最大の価値を置いてみる。すでに鬱っぽい人なら2~3年くらい、生活のためにやりたくない仕事とかしながらだったら5年くらいの時間は余裕で無駄にする覚悟が効くと思います。今日というかけがえのない時間を、完全に無駄にする覚悟みたいなもの。合理的とは次元の違う野生的な勘みたいなのを奪われてしまった人や、自分の本質がわからなくなってずいぶん経つ人も、このままいけば、自分にとって重要な人やグループからどんどん相手にされなくなることも知ってるはずで、いろいろ実は気づいてるなら、失った自分を取り戻すしかない。私の場合はただ歩くしかないみたいな結末を受け入れることです。私は明日もたぶん歩きます。でも術後1ヶ月くらいすれば、また別のアイデアや考えが浮かぶのかもしれないです。現実を生きるってそういうことかもしれないし、昨日、更新する用に書きためていた記事をぜんぶ捨てました。そのせいで今日の更新が遅くなったけど、私の中に本当の動機で書くものがあるとしたら、家族にしか読めないような字で書かれた汚いメモのようなものになるかもしれなくて、今日は何を書けばいいのか迷いに迷って、でも休みたくなくて、ふわっと書いて、結局ほんとにただのメモみたいになってしまいました。
また来週に、いや、もしかしたら明日かあさってでもよくて、書きたい時に書いていく。でも書く行為は好きなことだから、習慣にするのを目標にして、諦めないでいたい。

ちなみに今日の思考は、行き詰まるがまた回る人生の「10番の運命の輪」、歩くこと、頭を空っぽにする行為は「番号のない愚者」、中道を見つける行為が回復の最終系とするならば「14番の節制」。ぜんぶまとめて体現できたら「17番の星」が頭の上の方、目の前高く浮かび上がってくる感じ。