音楽の洗脳的受容

以前、とある人が「音楽を好きになるというのは慣れの問題だ」と言っていた。その言葉のニュアンスは「興味のない音楽でも、何回も繰り返して聴いていればそのうち洗脳されて好きになる」というようなニュアンスのものだった。

(作曲等の職業的な要請で)嫌いだったり興味のなかったりするジャンルを聴かなければいけない時に、この方法は一見有効そうである。しかし、自分はこの言葉を聴いてなんとも言えない違和感を味わった。


当時は「電波ソング」という言葉が非常に流布した時期でもあった。アニメやゲームでは意図的にものすごく癖の強い曲が頻繁に作られ、その筋のお店ではよくかかっていた。


大抵の人はその種の電波ソングを初めて聴いたら「ウゲッ」と感じるのではと思うが、何度も聴いていると、確かにそのうちになんとなく耳に馴染んでしまうのである。そして「自分はこの曲を理解できるんだ」という達成感や優越感を得て、〈違いのわかる人間〉になるのである。


音楽には踏み絵的な要素があって、どのジャンルが好きか・嫌いかといったことでグループを形成しがちである。自称音楽好きであればあるほど、自分のアイデンティティと自尊心に影響を及ぼすものだ。洗脳云々は別にしても、暗い青春を送ってきた人たちには心当たりがあるのではないか……


微妙に話がずれてきた。まあ、あんまり古傷を抉るのもなんなので、話のスケールを大きくします。


グローバル化以前の音楽は当然土着的な文化現象であり、その文化の醸成は半ば意図的、半ば無意識的なものであっただろう。生まれた時からそこにあった音をず〜っと聴き続けるというのは、ある意味で刷り込み、悪く言えば洗脳である。だから、音楽の身体化が半ば無意識的(洗脳的)だというのは音楽に関するある一側面を捉えているとは思う。


しかし、自分が容易に受け付けない種類の音楽を、惰性で何度も聴くことで洗脳的な状態に進んでのめり込み、それでもってそのジャンルの音楽を好きになるというのは本当にいいことなんだろうかと思う。どういう形であれ好きになるというのは悪いことでないという肯定的な考え方もあり得る。でも、本当は存在しているはずの軋轢を、洗脳という形で忘れ去るようなやり方で好きになるというのは、後々大きなしっぺ返しを食らいそうでちょっと怖い。

自分にとって本当は抵抗のある物事を、惰性的・麻痺的な自己洗脳によって受容するようなことが社会的・集団的に起こることは十分あり得る(満員電車、過労、パチンコ店の騒音など)。思えば90年代のヒット曲なんて、直接・間接的な意味で、結構そういう洗脳があるんじゃないか? 自分の身体の自然と知性を同じくらい働かせて、不自然なものには麻痺的に順応せず、適切な距離を保って過ごすよう努めたいものです。

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