見出し画像

池袋・明治期の水路?川?(追記あり)

明治前期の地図で池袋周辺が掲載されているものを見つけました。

明治11年(1878年)実測東京全図です。
「港区/デジタル版 港区のあゆみ」より
https://adeac.jp/minato-city/viewer/mp100080-100080/56_6175/

豊島区ではなく港区で見つけられるとは!ありがたや~
左上の地図名称「実測東京全図」の辺りがギリ池袋周辺です。
当時は東京郊外という扱いだったわけで、この範囲まで地図に掲載されていることが珍しいです。

以前記事にした「江戸時代から残る池袋の道(常盤通り)」を合わせてご参照ください。

ロサ会館の近くのトキワ通りの凹部分で川か水路の記載が見えます。
自然な河川か水路かわかりませんが・・・まぁ水路でしょう。
流路は「池袋二丁目原町会」と「西池袋一丁目町会」の境界とほぼ同じように見えます。

※12/26追記※
凡例の色がはっきりしないのですが水路は村境の可能性があるようです。
ときわ通りは村境ではないので水路だとは思うのですが明日館辺りは飛び地の関係から村境の可能性もあります。
しかし地図をよくみると池袋村と雑司ヶ谷村の名称記載がきっちり線で別れてるではないですか。
ということは・・・田舎なので地図作成者の認識不足?
それとも私の知識不足で村の境界が変更されたことがある?
(明治政府のごたごたとか)
何れにせよこれはこれで面白いので記事の内容はこのままにしおきます。
境界が変更されたことがあるのか調べてみよう・・・

「港区/デジタル版 港区のあゆみ」より引用
国土地理院より引用

しかも二又交番辺りから西池袋公園方面へ・・・
ここでは描かれていませんが丸池に流れ込む上流の流路と繋がっていたのかも知れません。

丸池の西側、明日館付近から目白方面への流れも見えます。流路はこんな感じでしょうか。

※12/26追記
よくよく見ると村境の気もしてきます。
長崎道踏切があった場所の北側には西から弦巻川への流れがあるはずでどのように合流するのか疑問はありました。
下記の場所は雑司ヶ谷村内なのですが、小石川村、巣鴨村の飛地がある場所ですし川村学園あたりは高田村との境界でもあります。
但し雑司ヶ谷村と高田村の境界は川村学園の少し北側を東西方向に境界がある認識です。当時は至る所で農業用水が引かれていたでしょうからやはり水路の可能性もあり・・・なにか解れば追記します。

「港区/デジタル版 港区のあゆみ」より引用
国土地理院より引用

ここでは触れませんがサンシャイン方向の流れもとても興味深い。
もうちょっと西側が見えれば・・・

※地図引用元
◆港区/デジタル版 港区のあゆみ 実測東京全図
https://adeac.jp/minato-city/viewer/mp100080-100080/56_6175/

◆国土地理院
http://maps.gsi.go.jp/


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?