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【やさしい翻訳】本居宣長「紫文要領」結論(上)

1.紫文要領は歌道論

歌道の真髄を知りたければ、この物語をよく読んで、その味わいを悟らねばなりません。また、歌道のありさまを知ろうとするときも、この物語のありさまをよく見て悟らねばなりません。この物語のほかに歌道なく、歌道のほかにこの物語はないのです。歌道とこの物語は、その趣が全く同じです。だから、これまでこの物語について論じてきたことは、そのまま歌道論であったと思ってください。歌を詠むときの心持ちは、この物語を読むときの心持ちと全く同じだからです。中世以来の歌人たちは、この書を大切に扱ってはきましたけれど、ただたんに歌の文句を引用し、歌の意味を借用し、己が詠む歌の趣向に取り入れ、あるいは文章の手本などにしただけのことであって、歌道全体の風情を知ろうと思って読む人はいませんでした。そのような事情から、読む人は多いのに、この物語の本当の味を知る人もなく、また歌道の本当の味を知る人もなかったのです。悲しいことではないですか。

2.歌道の真髄は源氏物語で知れ

歌人になろうとするならまず、「歌道とはいかなるものか」という、歌道の真髄を知るべきです。歌を詠む人は世の中に多いのに、歌道という観念についての共通理解が存在しないことが問題なのです。元より、歌道の趣を知らないで平然と歌を詠む歌人は論外です。歌人は必ず歌道の趣をよく知っていなければなりません。歌道の趣を知ろうとすれば、必ずこの物語をよく読まねばなりません。この物語の趣を知ろうとすれば、本書(紫文要領)の「大意の部」(本論)をよく読み、よく考え、それを物語の本文と照らし合わせなければなりません。この物語については古来から注釈書が多いですが、大抵のものは詳しくないし、最近に書かれたものは一見すると詳しそうでも、歌道の趣を知らない人が書いているために、物語の真髄に迫らないことが大半なので、歌道の道案内にはなりがたいでしょう。近代の研究者は歌道を知ったような顔をして書いていますが、実際は分かっていないので、物語の見方がどれも的外れなのです。私はこの現状を悲しく思っているので、詳しく物語の主題について書いて、読者の誤解を解こうとしました。その趣は「大意の部」に述べておきましたから読んでください。さて、その物語の趣をよく心得てから、物語をよく読むときは、歌道の趣がおのずから明らかになります。歌道の趣が明らかになるときは、己が詠むところの歌の良否もことごとく、古人の歌に異なるところがなくなるのです。

3.歌と物語の同一起源説

質問がありました。「この物語と歌道とが、その真髄において全く同じであるとは、どういう意味なのか?」私は次のように答えました。「歌は物の哀れを知ることから生み出される。逆に、歌を見ることで物の哀れを知ることもある。この物語は作者が物の哀れを知ることから書き出されたものである。また、物の哀れはこの物語を見ることで知るところが多い。であるからには、歌と物語、その出どころはひとつである」と。

4.古代人の心になって詠むべし

続けて質問がありました。「あなたの言うことに従えば、物の哀れさえ知れば歌は詠める、ということになるだろう。また、歌さえ詠めば物の哀れは知られることになるだろう。それなのにどうして、歌道の真髄を理解するために、わざわざ遠回りをして、この物語を読まなければならないのか」私は次のように答えました。「前にも述べたとおり、人情は古今貴賤の隔てなく普遍的なものだとは言いながら、その中身を詳しく見れば、時代の傾向や人間の境涯に応じて変化する部分もあるものである。歌も人情が物(運命)に反応した結果として、物の哀れから生み出されるものであるから、本来は普遍的なものなのだが、中世以来の決まりごととして、歌は古代の気風を学び、古代の風情に寄せて詠むことになっているから、古代の風俗習慣を学び、模倣して詠むべきである。そしてまた、その手本とすべき古代の歌は、いずれも中級以上の貴族が詠んだ歌であって、中級以上の貴族の生活感と心情から生み出された歌である。したがって、古代の歌を学ぼうとする際は、古代の中級以上の生活感なり心情なりを知る必要がある。そして、古代の中級以上の貴族の生活感と心情を知るのに、この物語にまさるものはない。このゆえに、歌道の真髄を知ろうとするなら、この物語をよく読めと言うのである」と。

5.歌が生成する瞬間に立ち会う

古代の歌をよく見ていれば、この物語を読まなくても、古代の中級以上の貴族の生活感なり心情なりは知られるはずだ、と思う人もありましょう。それはいわゆる「木を見て森を見ず」の類いで、不充分なのです。今どきの歌人はみんなこれです。たとえるならば、今ここに名人と言われる職人が作った素晴らしい器があるとして、いざそれと同じような器を作ろうとしたときに、器の見た目だけを参考に作るようなものです。そうして出来上がったものは、見た感じでは少しも違わないようでも、よくよく気をつけて観察したり、実際に使ってみたりすると、まったくの別物であることが分かります。古代の歌ばかり見て、古代の生活感と心情を分かっていない人が詠む歌は、これと同じです。この物語をよく読んで、古代の中級以上の生活感と心情をよく心得て、その境涯に想いを馳せ、それでもって古代の歌をよく見た人が詠む歌は、例の職人のもとに行って、作り方を詳しく学び、分からないことは質問しながら解決して、その上で器を見ながら作った器のようなものです。こうすれば、名器が生まれ出る大元をよく考え、よく理解してから作っているために、参考にした器と変わらないものが出来上がるでしょう。今どきの歌は、古代の歌を見てそれを真似したといっても、その歌が生まれでた大元を知らないために不充分なところがあって、古代の歌とその趣が違っていることが多いものです。この物語をよく読んで、古代の中級以上の生活感と心情をよく心得てから詠んではじめて、古代の歌が生み出された起源をよく分かっているために、古代の歌と変わらない風情の歌が出来るのです。

6.歌の起源はもののあはれ

質問がありました。「この物語を読むことで古代の歌が生まれ出る起源を知るとは、どういうわけなのか」私は次のように答えました。「古代の歌は事に触れて物の哀れを知ることから生み出されたものだ。だから、歌が生み出された起源とは物の哀れを知ることである。その古代人の物の哀れの知りようは、どういうものだったかを知ることを、歌が生成する起源をよく知るというのである。さて、古代人がいかにして物の哀れを知ったか、そのありさまはこの物語に詳しく書かれているから、これをよく読んで、古代人が物の哀れを知ったありさまを知れと言うのである」と。

7.人情の時代性

質問がありました。「物の哀れを知ることに、古代も現代もなく、貴族も庶民もないはずなのに、古代の中級以上の貴族の物の哀れを知るありさまを、特別に知らなければならない理由がどこにあるのか」私は次のように答えました。「前にも述べたように、人情は和漢・古今・貴賤の区別なく、普遍的なものであることは言うまでもないことだが、時代に固有の風儀と、地域に固有の風俗と、個人に固有の境涯に応じて、人情も少しずつ変わるところがあるものである。そして、中世以来の慣習として、歌の詠み方は、みな古代の歌を手本に学ぶことになっている。古代の歌はみな中級以上の貴族が詠んだものであって、庶民が詠んだ歌はない。したがって、古代の歌を学ぼうとする際には、古代の中級以上の貴族の生活感と心情をよく心得ておかなければ、その歌が生まれでた大元を知りがたいのである。知りがたいのは、古今貴賤によって少しずつ人情が異なるところもあるためである。人情に異なるところがあるからには、物の哀れを知るありさまも少しは異なることもある。だからこそ、古代の中級以上の貴族の物の哀れの知りようを、よく心得なければならないのである」と。

8.古代人の心の実相

続けて質問がありました。「古代の歌を見ていても、今どきの庶民が詠む歌の心と、そう変わっているようには見えない。桜を見れば面白く、梅は匂いが深く、春は心がのんびりとしていて、秋は物悲しく、月を見れば物哀れに感じ、恋をすれば悩ましく、旅の途中は故郷が恋しく、無常は哀しく、祝い事は喜ばしいなどと言う。これらは古今貴賤を問わず変わることのない心情である。ならば古代の中級以上の貴族の人情といって、特別に変わったことはないのではなかろうか」私は次のように答えました。「それはたんに変わらないところを列挙しただけだ。古今貴賤によって価値観が変わって、古代では好んで詠まれていた事柄が、現代では何とも思われなくなったり、現代では人々がもてはやしている事柄が、古代の歌では詠まれていなかったりする場合も多い。そういうものが、古代と現代の相違点である。今どきの歌の詠み方は、古代を学び模倣する決まりがあるから、今や何とも思われていないような題材でも、古代の歌にならって素晴らしいものとみなして詠み上げ、現代では素晴らしいとみなされるような題材でも、古代の歌に取り上げられていなければ詠まないことになっている。このように、古代と現代とで変わったところはたしかにあるのだ」と。

9.感情の劣化①月花をめでる

今の点について、いくつか具体例を挙げてみましょう。古代と現代で、月花をめでる心は、はたして同じでしょうか?現代人はどれほど風雅を好む人といっても、昔の歌や物語などに見られるような深さで、月花をめでているでしょうか?古代の歌や物語を見ていると、月花をめでる心の深さ、それにつけて悟る物の哀れの強さなどは、現代と雲泥の差があります。現代人もひと通りは『花は面白く月は哀れである』と見ているけれど、古代人のように深く心に染まるほどの感慨は湧きません。それでも『人情は古今に変わらない』と言えますか?さて、月花の歌を詠もうとして、私たち現代人が心のままに詠んでしまっては、少しも見どころのない歌が出来上がります。現代の心とは相違するが、ただ昔の歌にならって、昔の人の心になってみて詠むのが、正しい歌の詠み方というものです。だからこそ、古代人の心をよくよく心得よと言うのです。

10.感情の劣化②恋の今昔

次に、恋の歌について考えてみましょう。今日においても、色を好まない人はいないでしょうが、古代人のように命をかけてまで恋の不条理に突き進む人は少ないと思います。もちろん、今だって恋のために命を捨てる心中のような事件は、日常茶飯事に起こっているわけですけれど、その趣や心情は古代のそれと大きく異なります。ならば、恋をしていない人も恋の歌を詠まねばならない決まりに従って、だれもが古歌の心にならって詠んでいるのですから、恋の歌を詠もうとするなら、ことさらに古代の生活感と心情を知らずには済まされないことになるのです。・・・以上で、古代と現代とでは人間の感情に差異があることを説明したことにします。その他の感情生活についても同様のことと思って、あとは類推してください。

(つづく)


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