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📙金子みすゞと詩の王国📙


亡くなる前日に撮影した写真


詩人・金子みすゞの希望と挫折の生涯、大正デモクラシーの理想から生まれた童謡詩の盛衰をたどりながら、珠玉の名詩60編を文学の視点から読解する新しいみすゞ論。
NHK「100分de名著 金子みすゞ詩集」で指南役を務めた著者が番組テキストを大幅に加筆。図版写真97点。実弟の日記を収載。心に響く暖かな言葉の王国へいざなう。

文春文庫 金子みすゞと詩の王国 背表紙より

松本侑子先生が書かれた文春文庫の新刊「金子みすゞと詩の王国」を読みました。

ずっと前から知っていて、遠くから見ていただけのお友達が
話してみたら急に身近に感じる・・・
そんな気持ちでいっぱいです。

金子みすゞさんの詩「私と小鳥と鈴と」の中の
「みんなちがってみんないい」という言葉は
有名ですね。
でもどんな女性だったかご存知ですか?


◆金子みすゞ(かねこ・みすず)
詩人。本名テル。1903(明治36)年、山口県生まれ。下関の書店員だった20歳で詩作を始め、雑誌「童話」「赤い鳥」に投稿。詩人の西條八十に絶賛されるも、生前に詩集はなく、1930(昭和5)年に自死。代表作「私と小鳥と鈴と」「大漁」「蜂と神さま」「こだまでしょうか」。小さな命への愛、人間の孤独と希望、女性の生き方、都市と田園の心象風景、宇宙への洞察を、豊かな想像力、巧みな比喩、自然界への哲学的思索で描く。
文藝春秋ブックスより引用

あの日の金子みすゞ


2011年3月17日に私はタイ航空で羽田空港に帰ってきました。
3月11日あの時間ちょうどタイチェンマイから
さらに奥地のチェンライへと単身バスに乗って移動中でした。

チェンライのホテルに着くとすぐに
日本で巨大地震が発生したことを聞きました。
慌ててインターネットカフェに行くと仙台空港に押し寄せる津波の映像が流れています。

翌日はさらに奥地の電波の届かない
アカ族の村にいき
ほとんど情報を知らずに過ごしました。


私は異国でどうするすべもなく、
ただただ家族、友人知人の無事を祈っていました。

山を降りてチェンライのまちに戻ると
原発事故のニュースで持ちきりでした。

私が日本人と知ると、
お米を送るよ。元気出して。
祈っているからね。
とカタコトの英語で励ましてくれるタイの人たち。

音楽みたいに聞こえるタイ語・・
山岳民族のアカ族の聞いたこともない言葉・・・
私は日本語に飢えていました。

飛行機に乗って日本語のニュースを聞いた時は
ほっとしたことを覚えています。

そして帰宅してテレビをつけると
ACジャパンのCMがずっと流れていました。

〜こだまでしょうか 
いいえ、誰でも・・・〜

なんでこのタイミングで金子みすゞさんの詩なのかなあとふと思いました。

著者松本侑子先生もちょうどその頃ペンクラブのお仕事で
ベルリンにいらしていたそうで、
同じような経験をされていることを知りました。

〜相手にかけた言葉は同じ言葉で帰ってくる。
 それはこだまだけでない・・・
 当たり前のことを、子どもの語り口調でくり返し、
 そのリフレインが大きな力を持っていく詩の力。〜
本書296ページ

松本先生はそう書いていらっしゃいます。

そうなのです。言霊という言葉の通り、
言葉は力を持って人を奮い立たせてくれるのです。

私は小さい頃から詩を書くことが好きでした。
学生時代はよく詩を読みました。
鈴木三重吉、西条八十、室生犀星、山村暮鳥…


あれ?なんで金子みすゞの名前がすぐに出てこないの?

実は私は愛娘を残して自らの命を絶ったみすゞさんの心に
寄り添うことができずにいました。
なぜ?なぜ?
母親なら我が子のためにどんな試練も厭わないもの・・・
という私の固定観念があったからです。

ですから、遠くから眺めていたのかもしれません。

2001年TBS創立50周年記念番組として放送された
「明るいほうへ明るいほうへ−童謡詩人金子みすゞ」は
松たか子さんがみすゞを演じました。
複雑な家族関係の家で過ごすみすゞは
23才に時に義父の要望で結婚します。
結婚式相手はみすゞに淋病をうつした不埒もので、
ろくでなしのDV男だったように描かれていて、
離婚を決意しますが、愛娘の親権を得られず、
愛娘を取られるくらいなら死を選ぶという運びでした。

松たか子さん



実家は裕福なので、
自分一人で育てたら良いのにとも思いました。

しかし淋病に冒され、治る望みもなく
詩人としても将来が危ぶまれたなら自死も仕方ない?

のかなあ…と思ってみたり。

2014年にみすゞの実弟の日記が見つかって、
それまで謎だった部分に光が当たりました。

松本侑子先生は丹念に調べ、
みすゞの元夫の親族にも丁寧な取材をして
新しい解釈を得ました。

この本を読んで、
今まで私がわかっていたような気がしていたことが
そうではなかったとわかりました。

ネタバレしてはいけないので、これ以上は書きませんね。



「このみち」〜未来へのまなざし

最後にみすゞの詩「このみち」を紹介します。
ちなみに白秋は「赤い鳥」大正15年8月号に、有名な詩「この道」を発表しています。

     この道  北原白秋

 この道はいつか来た道
 ああ そうだよ
 あかしやの花が咲いてる 
 
 あの丘はいつか見た丘
 ああ そうだよ
 ほら 白い時計台だよ
 
 この道はいつか来た道
 ああ そうだよ
 お母さまと馬車で行ったよ
 
 あの雲はいつか見た雲
 ああ そうだよ 
 山査子の枝も垂れてる

白秋の「この道」は、かつて少年の日に、この道を母さんと通った想い出と、西洋的な時計台の情景をノスタルジックに追想し、少年時代に見た遠い風景と、優しい母さんの面影もほんのり浮かびます。
 みすゞは結婚前、つまりこの詩よりも早い大正14年ごろに「このみち」を書いています。




     このみち  金子みすゞ


   このみちのさきには、
   大きな森があろうよ。
   ひとりぽっちの榎よ、
   このみちをゆこうよ。

   このみちのさきには、
   大きな海があろうよ。
   蓮池のかえろよ、
   このみちをゆこうよ。

   このみちのさきには、
   大きな都があろうよ。
   さびしそうな案山子よ、
   このみちをゆこうよ。

   このみちのさきには、
   なにかなにかあろうよ。
   みんなでみんなでゆこうよ、
   このみちをゆこうよ。

詩中の「榎」はニレ科の落葉高木、「かえろ」は蛙です。
白秋「この道」は過去へのまなざしに対して、みすゞの「このみち」は未来への希望の詩です。
 私たちが生きていく人生という道の先に、何があるのか、誰にもわかりません。
けれど、この道の先には、大きな森があろう、大きな海が、大きな都が、すばらしいなにかがあろう。今は一人ぽっちでも、この道の先には、きっと仲間がいる、広い世界がある、明るい未来があると信じて、みんなで歩いて行こう・・・。
 この詩が百年近く前の大正時代に書かれたことを想うと、その新しさ、時代を超えたメッセージにあらためて感嘆します。
本書 305ページ〜308ページ



私がずっと感じていた金子みすゞへの思いは
志半ばにして自分の夢をあきらめてしまった詩人への
腹立たしさ・・悲しさ・・・無念さ・・・だったと
気づきました。

なんで生きなかったの?
なんであきらめたの?
なんで、なんで?

この先にあるものを見ないでなんで?

母のない私は随分と苦労してきました。
だから人一倍、子を残して逝ってしまったみすゞを
許せなかったのかもしれません。

この年になって、
この本を読んで
私はみすゞさん、みすゞさん、
ようやくあなたと話ができるわと
ようやくあなたの詩を味わえるわ
私の祖母にも似ているような遺影に語りかけました。



とても良い本です。
お手にとってお読みください。

この道 北原白秋 作詞


このみち 金子みすゞ作詞





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