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📽 われ弱ければ 矢嶋楫子伝


使命とは、命を使うことです。
自分の命は、自分で使うのです。


三浦綾子原作、山田火砂子監督、常盤貴子主演映画
「われ弱ければ」を横浜シネマリンで見てきました。



原作は1989年に初版。
私が読んだのは
ちょうど息子たちが自由学園に通っているときで、
女子学院の教育のもとにある
矢嶋楫子先生の生き方に感銘を受けました。
その割には記憶は薄れていたので、
映画を先入観なしにみることができました。

映画にかける監督の思い


監督 山田火砂子

矢嶋楫子は1833年に、現在の熊本県に生まれました。
洗濯のたらいも男女に分けるなど、極端な男尊女卑の社会で苦労を重ねました。
家族への度重なる乱暴を引き起こす酒乱の夫に、身の危険を感じた楫子は、末の子を連れて家出し、離縁状を叩きつけます。女性から離縁を正々堂々と申し出た初の女性が矢嶋楫子でした。
楫子の甥には徳富蘇峰、徳冨蘆花がいます。
 状況して小学校の教員になった楫子は、ミセスツルーというアメリカ人の先生から、女学校の校長先生の仕事をすすめられます。そして洗礼を受けクリスチャンとなり、その後、現在もある女子学院の院長になり、教育界では、推しも押されぬ女性となります。
 1886年、日本キリスト教婦人矯風会の全国組織を結成し、初代会頭となりました。
一夫一婦制、婦人参政権、禁酒、廃娼運動など、たくさんの活動に加わり、女性解放運動の元祖ともいえます。そして、90歳の時にはアメリカで軍縮会議に出席し、世界平和を強く訴えました。
 明治大正という、女性が一人の人間として尊重されることのなかった時代に、女子教育に力を注ぎ、女性解放運動に生涯を捧げた矢嶋楫子。その素晴らしい生き方が、一人でも多くの人の力になればと願いつつ、制作致しました。
 この作品に対して、瀬戸内寂聴さん、樋口恵子さん、上野千鶴子さん他多くの皆様に賛同して頂いた事に、ここで感謝申し上げます。


原作 「われ弱ければ」【はじめに】より


三浦綾子さんは小説「われ弱ければ」のはじめにで、このように書いています。

実は私も、矢嶋楫子の名前を知ってはいたが、どんな女性かはまったく知らなかった。なんとはなしに「偉い人」という堅苦しいイメージが、自分の側に勝手にあって、矢嶋楫子について知ろうという意欲はもてなかったのである。
人間には、ともすれば自分の偏見によって人を嫌ったり、煙たがったりして、自分の世界を狭く生きる愚かなところがある。矢嶋楫子を調べながら、
(なぜ、この人をもっと早くに知ろうとしなかったのだろう)
と、私は幾度も思った事であった。六十も半ばを過ぎてから知るよりは、教師をしていたころに知っていたら、私はもっとちがった教師になっていたかもしれない、とも思うのである。

矢嶋楫子は「あなたがたには聖書がある。自分で自分を治めよ」と言い切った。この学校はキリスト教主義の学校で、各自聖書を学んでいたとはいえ、「自分で自分を治めよ」という言葉に、生徒たちはどれほど人間としての自覚を促されたことであろう。これはすべての生徒の人格を認めたのである。
この思いがあれば、規則なるものをそう多く作り上げる必要はないのであろうかと思うほどである。


矢嶋かつとして生まれ


楫子は矢嶋家の六女として生まれました。
男尊女卑の強い土地柄、
男子を望む期待が大きい中、
1833年4月24日に産声を上げたのは女児でした。
みんながっかり。

お七夜が過ぎても、この女児には名前がありませんでした。
妹を憐れに思った10歳になる三女の順子が「かつ」と名付けました。
なんとも悲しいエピソードですが、
かつは家族から、「渋柿」と言われて
大きくなりました。

笑顔のない孤独な少女時代を送り、
疎外された淋しさや、悲しさ、喜びさえも、
じっくり一人で味わい、
一人で耐えるという事を学んでいきました。

25歳の時に二度の酒乱で
離婚歴がある子持ちの林七郎と
長兄にすすめられるまま、
気の乗らない結婚をしました。

なさぬ仲の子供3人と自分の子供3人の母となり、
10年が過ぎていきます。

極度の疲労と衰弱で、
かつは視力はだんだん落ちていきました。
結婚とは何かと考える日々を送るうち、
ある夜決定的な事件が起きます。

いつものように酒に酔った七郎が小柄を抜いて、
かつが抱いていた赤ん坊を目がけて、
投げつけたのです。
庇ったかつの二の腕に小柄が刺さり、
血が流れました。

かつはそのまま赤ん坊を抱いて、
実家に帰り、
翌日迎えにきた夫にも会わず、
ついに黒髪を根元からぶっつり切って、
自分から離縁を求めたのです。

女から夫に三行半を突きつける!
前代未聞の大スキャンダルでした。

矢嶋楫子として生きる


こどもを抱えて、
姉の家に居候をして5年が過ぎたころ、
江戸改め東京で病を得た長兄の看病に出向くことで
故郷と訣別したかつは自らを
「楫子」と名乗るようになりました。
船の楫のように行先を自らが導くものに
なりたいと決意しました。


自立して生きるために
教師の職を得た楫子は
優秀な小学校教諭となります。

ところが初めて恋に落ち、
妻子ある鈴木要介との間に子を成します。
もちろん許される事ではありません。
人目を忍んで女児を出産し、
里子に出します。

そして、
ミッションスクールの女性宣教師ミセスツルーに
見出され、教育者としての道を歩みます。

酒乱の夫に自分から離別し、
酒乱の親の酒代の代わりに売られて行った教え子を憂い、
不義の子を生んだという一事を胸に秘め、
後に日本矯風会の会頭として
アメリカに渡り、
大統領とも接見した楫子。

「只一條に、慣れぬ道ながら救いの道を辿りました」

楫子のこの言葉の深さ、謙遜さ、苦しさを思います。



われ弱ければ


三浦綾子は最後に書いています。

人間は、じっと自分を凝視する時、必ず自分の弱さを見るに違いない。
弱いがゆえに、私たちは日々どれほど多くの歪んだ人間関係を生み、情欲の負け、金銭欲の目が眩み、権力欲に足をすくわれて生きていることか。そうでありながら、自分の弱さに気づかずに、私たちは生きている。私は、この稀に見る大教育者であり、社会運動家であり、キリスト者である楫子を書くことによって、「われ弱ければ」の思いに、ひたすら神を見上げつつ祈りつづけた姿を世に紹介したかったのである。



90年の人生を2時間で描くには
無理はありますが、楫子のエッセンスを見事に描き切ったと
山田火砂子監督の熱意に敬意を表します。


地味な映画ですが、
お近くの劇場、集会場で上映されたる時
ぜひ足を運んでください。


人生観が変わるかもしれません。








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#矢嶋楫子
#山田火砂子
#女子学院

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